うるさい(6)

 バターの溶けたポップコーンを、航汰は次々と口に放りこんでいく。

「おいしいですね、これ」


 窓を開けても尚、部屋には香ばしい匂いが漂っていた。

 食欲を刺激され、俺も負けじとポップコーンの容器に手を突っこんだ。ひと掴みを一気に頬張る。バターの塩気とコーンのかすかな甘みが、口の中いっぱいに広がった。

「うめえ」


「そうでしょうそうでしょう。やはり私の買い物は間違っていないようですね」

 誇らしげに胸を張る航汰に、俺は尋ねる。

「でもなんで突然ポップコーンなんて作ろうと思ったの?」


「生霊が消えたからですよ。お祝いに、派手で明るいことをしたらどうかと思ったのです。生霊の出る部屋では、今まで楽しく過ごせていなかったのではないですか?」

「そりゃあ生霊があれだけ騒いでいたらな」

 答えながら、さらにポップコーンを頬ばった。作り立てだからだろうか、市販のものより口当たりが軽い。いくらでも食べられそうな気がする。


「それでどうして、ポップコーンを食べるのが派手で明るいことになるんだよ」


「だってポップコーンですよ? まず響きが明るいじゃないですか。ポップなコーンが、お部屋で弾けるんです。これ以上に晴れやかなことってあります?」

 航汰はよくわからない理屈を熱弁する。

 

「お祝いと言ったら普通、寿司とか焼肉なんじゃねえの?」

「お寿司と焼肉が食べたいのですか? いいでしょう、それなら今すぐ私が、」


 立ち上がろうとする航汰を、俺は押さえつけた。

「やめろよ。そういうのはいいって」


「何がですが?」

「どうせ寿司と焼肉おごるとか言い出すつもりだったんだろう? そういうのはやめろって前にも言っただろ。他人のために金を出すのは、これからなしだからな」

「では、ポップコーンメーカーを買うのはいいのですか?」

「別にこれ、俺のためだけに買ったわけじゃないだろ? あんただって楽しんでるじゃん」

 

 航汰はしばらく頭を悩ませていたが、

「違いがよくわかりません」

 と口をへの字に曲げた。

「二人で楽しめるようなことにお金を使うのはいいけれど、食べ物をおごるのはなしということでしょうか?」


「うん、まあそういう感じ」

 俺は頷いた。

 コンビニアイスをおごる程度ならアリだけど、二人で楽しむからといって、例えばレジャー代を友達のぶんまでまるまる負担するのはナシ。そういう基準を一つ一つ教えてやる義務など、俺にはない。

 そもそも俺と航汰は、友達なのだろうか?

 一つ言えるのは、航汰のアドバイスのお陰で、俺は生霊騒音問題から解放されたということだ。

 したがって、義務はないけど、義理はある。

 俺は航汰の気が済むまで、友達ごっこに付き合ってやるつもりだ。



 女の霊の正体が、下の階に住む女性の生霊だとわかった日、航汰は言った。

「すぐにでも下の階の方へ、入居のご挨拶に伺いましょう」


 もしかしたら相手は、上の階の住人が俺だと知らずに、生霊を飛ばしているのではないか。というのが、航汰の推理だった。

「小野塚くんの前に、この部屋に入居していた方が、下の階へ迷惑をかけていたのではないでしょうか。下の階の女性はきっと、前の入居者が引っ越して、現在は小野塚くんがこの部屋に住んでいると知りません。だから今でも生霊を飛ばし続けているのです」


「俺が入居の挨拶に行けば、その迷惑野郎がもう部屋を出てったとわかる。そうしたらもう生霊は飛んでこなくなるってことか」


 俺は翌朝、タイミングを見計らって、部屋から出てきたばかりの女性と接触した。

 航汰の言ったとおり、女性は俺の部屋に現れた生霊と同じ姿だった。初対面という気がしない。

 突然話しかけた俺を前に、女性は不思議そうな表情を浮かべた。警戒されなかったのは、朝という時間帯と、俺が平均的な男子高校生と比べて、小柄で童顔だからだろう。

 上の階に住んでいると告げると、女性は頭をそらし、呆けたような目で天井を見た。それからゆっくり俺へと視線を戻した。


「ああ、そうだったんですか。今はあなたが住んでいるんですね」

 どうりで最近は静かだと思った。そう口走った女性に、

「前の入居者は、うるさい人だったんですか」

 すかさず俺は尋ねた。


 女性は腕時計を確認して、悩むような仕草を見せたが、以前から誰かに愚痴って、発散させたかったんだろう。滑らかに舌を回した。


「そうなのよ。朝も夜もおかまいなしに毎日ドタバタと本当にうるさくて。このマンション、壁は厚いけど床はそうでもないみたいで、とにかくよく音が響くのよ。それで管理会社のほうから何度か注意してもらったんだけど、もう全然だめ、むしろ前よりひどくなっちゃって。苦情を入れたわたしへの当てつけみたいに、わざわざ大きな音を響かせるようになったの。それもド深夜によ? 考えられる? それで寝不足が続いたせいで、仕事でもミスが続いて――」

 と、そこで女性は言葉を切り、頬を赤らめた。

「ごめんなさい、あなたに聞かせる話じゃないわよね」


 俺は改めて入居の挨拶が遅れた旨を詫び、

「音には気をつけているつもりですけど、何かあったらすぐ言ってください。俺、直しますから」

 素直な学生を装って付け加えた。


「良かったわ、あなたはいい子そうで」

 女性は微笑み、清々した様子でエレベーターのほうへ歩いて行った。

 

 それから、生霊は現れていない。



「そういえば、彼女は何を振り上げているのでしょうか」

 ポップコーンで脂っぽくなった指をティッシュで拭いながら、航汰は言う。その目は、俺が撮影した生霊動画へと注がれている。頼まれて、航汰のスマホに送ってやったものだ。


「どれ?」

 俺は航汰の横に移動し、画面を覗きこんだ。動画の中で、生霊は組んだ指を頭上に掲げては振り下ろすという動作を繰り返している。


「この手元をよく見てください。単純に指同士を組んでいるというより、何かを握りこんでいるように見えませんか」

 

 ズームアップして見ると、手の平同士がくっついておらず、薄く隙間があいているのがわかった。確かに航汰の指摘通り、この生霊は何かを握っている。

 一体何を握っているのか。

 そこに振り下ろすという動作を加えて考え、俺は閃いた。

 キッチンに行き、あまり使うことはないけれど一応持ってはいる、包丁を手に取った。両手で握り、航汰の眼前に振り下ろしてみせる。


「ひいい」

 航汰は情けない声をもらし、身を引いた。


「つまりこういうことだろ」

 俺は言った。

 女の生霊は、前にこの部屋に住んでいた住人を、殺したいほど憎んでいたということだ。


「もう脅かさないでくださいよ」

 と航汰がテーブルに手をついた拍子に、ポップコーンを入れていた容器がぐらりと揺れ、床に落ちそうになった。


「おっと」

 俺は素早く、容器を両手で受け止めた。もしこれが床に落ちていたらと考え、冷や汗が出る。容器は重たいガラス製で、派手な音を響かせて割れる可能性があった。

 容器を受け止める瞬間、頭に浮かんだのは下の階に住む女性の顔だった。過敏な彼女の、恨みを買うわけにいかない。

 物音一つ立てたのがきっかけで殺されるなんて、たまったものじゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る