黒影(5)

 カウンターに頬杖をつき、返却されてきたばかりの漫画をぱらぱらと捲っていると、ふいに影が差した。

 見上げると、田中先生が立っていた。


「暇そうだね、健斗」

 

 先生が俺を下の名前で呼ぶのは、周りに他の生徒がいないときだけだ。

 俺は首を伸ばし、図書室全体を見回した。通常の放課後であれば、ちらほらと自習する生徒が見られるのだが、今日は誰も机についていない。体育館でバスケ部と県内の強豪校との練習試合が行われている影響だろう。みんな観戦するのを楽しみにしていて、今朝から、教室中がその話題でもちきりだった。


 もうひとりの図書委員、垣内も、今は体育館へ行っている。俺のほうから垣内に、「どうせ今日はたいして人来ないだろうし、カウンターに座ってるだけなら俺ひとりで十分だよ」と言ったのだ。垣内はすまなそうにしながらも、やはり試合のほうが気になるのだろう。「もし忙しかったら連絡して。速攻で戻るから」と言い、図書室を出て行った。

 実際、俺がカウンターについてからやったのは、漫画の返却処理一件だけだった。


「先生はバスケ観に行かないんですか?」

「うん」

「興味ない?」

「どうだろう。実はバスケの詳しいルールを知らないんだ」


 先生はスポーツとは縁遠い、根っからの文系だ。学生時代は文芸部で部長を務めていたらしい。

 

「これ、お願いしますね」

「はい、返却ですね」

 先生から文芸誌を受け取る。


 パソコンのページを開き、返却欄にチェックを入れていると、先生がカウンターに身を乗り出してきた。

「最近、航汰とは会っているかい?」


「ここ一週間は会ってないですね。向こうから連絡もないし、こっちが連絡してもスルーされてます」

 航汰の名前を聞いて、俺は思わず顔をしかめた。

 田中先生が巻きこまれた交通事故。その現場で見た、黒い影。正体をつきとめようと影を追った後、辿り着いた古い店舗。


 二店舗についての詳しい情報を集めるため、周辺で聞きこみをしようと約束したのに、航汰からはその後、なんの音沙汰もなかった。おおかた、他に気になる事案でも見つけたかして、そちらへかかずらっているのだろう。


 約束を守らず、それついての謝罪もなく、連絡すらしてこない。

 俺は今、航汰に対し猛烈に腹を立てている。

 ひとつのことに夢中になると周りが見えなくなるタイプとはわかっていたが、まさかここまで自分勝手だとは思わなかった。

 航汰は、あの交差点でまた田中先生が事故に巻きこまれても、平気なのか。

 先生のために、事故の真相を探る。これより他に、優先させるものなどないだろう。


「ほんと勝手というか、非常識というか、あんなふうだから友達がいないんですよ」 

 と言い放った勢いで、うっかり立ち上がってしまった。

 座り直すのもおかしな気がして、仕方なく返却物を棚に戻しに行く。昨日のぶんと合わせるとそれなりに量があったが、面倒なので一度に抱え上げた。


 咄嗟に、先生が手を出してきたが、左腕の痛みを思い出したのが、すぐに引っこめた。俺は平気ですという意味で、首を横に振った。先生の左腕には、未だに白い包帯が巻かれている。


 俺が歩き出すと、先生も後ろをついて来た。

「僕のところにも、航汰からもう一週間連絡が来ていないんだ」

 

「静かでいいじゃないですか」

「いや、今までこんなことなかったから、少し心配でね。体調を崩して寝こんでいるとかならいいけど、あるいは――」

「何か気になることでもあるんですか?」

「うん、健斗もわかるだろう。航汰は普通よりちょっと、いやだいぶ……」

「好奇心が強い?」

「そう、そうなんだよ」

 痒いところに手が届いたみたいなテンションで、先生は言った。

 さすが先生は、航汰をよく理解している。

 俺はちょっとだけ航汰のことが羨ましくなった。


「それで子どもの頃はよく、ひとりでふらっといなくなったりしたことがあったんだ」

 

(あれ……?)


 俺は立ち止まり、後ろを振り返った。

「先生と航汰は、そんな昔から知り合いだったんですか?」


「ああ、子どもの頃の話は、航汰のご両親から聞いたんだよ。航汰が在学中、何度か話をする機会があったからね」

「へえ、そうだったんですか」


 俺が知らない、先生と航汰だけのエピソード。

 胸の辺りがちりちりと痛くなるのを感じた。

 俺は棚の間を歩きながら、先生に尋ねた。


「じゃあ今回もまた航汰は、どこかにふらっと出かけていると?」

「そして、何かトラブルが起きて自力で戻って来られなくなっているのかもしれない」


 心配しすぎじゃないですか。そう言おうとしたけれど、先生の声には何か切実なものが含まれている気がして、言えなかった。

 背伸びをし、手にした本を棚に押しこみながら、俺は先生になんと答えたらいいだろうと考えた。

 思考に集中しすぎたためか、ふいに、体のほうのバランスが崩れた。


「危ないっ!」

 

 よろめいた俺を、後ろから先生が抱き留めてくれた。

 薄くシャカシャカとした素材のアームカバーが顎をくすぐり、俺はふいに、何かに気づきかけた。


「こんな天気の日だったんだ」

 突然、先生が言った。


 俺は抱き留められた姿勢のまま、首だけをひねって、先生の顔を確認した。

 先生は、遠い目をして窓の外を見ていた。


「薄曇りの、風のない日だった。僕の両親と弟たちが事故に遭ったのは」

 淡々と、先生は続けた。

「だからこういう日は、色々と思い出してしまってね、悲しくて寂しくて、とても不安な気持ちになるんだ」


 まるで俺にすがりつこうとするみたいに、先生は右腕に力をこめた。


「先生、泣いてるんですか?」

「泣いてないよ」


 先生はそれから、小さく「ごめん」と言って、俺を離した。


 俺は先生を真っすぐ見つめて言った。

「大丈夫ですよ。僕が航汰の様子を見に行って来ます。それで先生に心配をかけるとどんな目に遭うか、きちんとわからせてやりますよ」

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