閉所(1)

 カールした茶色い毛の犬が、ゴムボールに噛みついている。


 昼休みの渡り廊下で、俺は数分前から似たような画像を何枚も見せられ続けていた。


 スワイプを繰り返して、ようやく違うショットが表示される。今度は、同じ犬が天に腹を向けて眠る様を写した画像だった。口の端からだらりと舌を垂らし、白目を剥いて眠る犬は、はっきり言ってブサイクだけど、心底リラックスしていることが窺えて、微笑ましくもあった。


「かわいいでしょう? うちのチェリー」

 犬の飼い主、垣内が自慢気に言う。

「トイプーの中でも、チェリーのかわいさは上位だと思うんだ」


 小野塚もそう思うよね? 同意を求められ、俺は曖昧に頷いた。ごく普通のよく見かけるタイプのトイプードルだけど、垣内の目には特別魅力的に見えているらしい。


「ああ、かわいいね」

「でしょ? やっばいよね、このかわいさ」

 

 垣内は尚も、俺に愛犬の画像を見るよう迫った。

 あと何分で昼休みは終わるのだろう。

 考えながら、次々と表示される犬の画像に、適当な反応を返していく。俺はさっきから「かわいいね」と「やばい」しか言っていない気がする。

 俺のおざなりなリアクションにも、垣内は満足そうだ。笑顔で愛犬のエピソードを語っている。


 垣内はおそらく、俺を犬好きだと決めてかかっているのだと思う。

 少し前、はじめてまともに垣内と会話したときのことだ。

 彼女は愛犬について「写真見せてノロけまくりたい」と口にしていた。そのときは冗談だと思い、俺はすっかり忘れていたのだが、彼女のほうは本気だったらしい。

 今日になって、「チェリーの写真整理したから見てよ。約束したでしょ?」と話しかけてきた。

 

 貴重な昼休みを、俺はなんの思い入れもない犬の画像を見るのに費やしている。


「あ、サクラちゃんだ」

 垣内の声に反応して、顔を上げる。見ると、廊下の先に田中先生の姿があった。

 

 俺と垣内が並んでいるのに気づき、先生は一瞬、おやっという顔をした。

「垣内と小野塚か。珍しい組み合わせだな」


 先生に話しかけられた垣内は、明らかに舞い上がった様子で、

「えー、そんなことないよー」

 と返した。

「うちら、ちょっと前から親友だからね、親友」


「へえ、そうか。二人は親友なのか」

 田中先生は目を細め、それから俺にだけ伝わるようなニュアンスで頷いた。


 そこで俺は気づいた。今が田中先生を安心させるチャンスなんじゃないだろうか。先生は常日頃、俺の学校生活を案じている。俺が放課後に国語資料室に入り浸るのは、クラスに馴染めず、話し相手がいないからではと考えているようだった。

 俺が国語資料室に通うのは、田中先生とゆっくり会話する時間を確保したいだけなのだけど、それで先生に余計な心配をかけるわけにはいかない。


 垣内との仲の良さをアピールするため、俺は意識して笑顔を浮かべた。

「今、垣内んちの犬の写真を見せてもらってたんですよ」


「かわいいんだよ。そうだ、サクラちゃんも見る?」

「先生も犬は好きだから、本音は言えば見たいところだけど、一応生徒には校内でのスマートフォンの使用を禁止している身だからね、今日のところは遠慮させてもらうよ」

「そっかあ、残念」


「他の先生に見つかるといけないから、それはもう仕舞って」

 田中先生が声を潜め、垣内の手の中のスマホを指差す。

 垣内が従うと、

「そろそろ五限が始まる時間だよ。二人とも教室に戻ったほうがいいんじゃないかな」

 そう言って、先生は歩き出した。


 先生が廊下の角を曲がるのを待って、垣内が抑えていたものを吐きだすように、はあっと息をついた。

「やっぱサクラちゃんていいよねえ。理解あるー。他の先生だったら、速攻でスマホ没収されてたところだよ」



 ■ ■ ■



 放課後、俺はいつものように国語資料室に向かった。

 航汰は今日、叔父と買い物に行くと言っていたので、うちに押しかけては来ないだろう。だからじっくり、先生との時間を過ごせるはずだ。

 まあ、仮に航汰がうちに来たところで、外で待たせておけばいいだけの話なんだけど。


 滑りの悪い扉を、体重をかけるようにしてスライドし、屋外の渡り廊下に出る。廊下の先は、旧校舎の入口へと繋がっている。

 旧校舎に入ると、毎回首筋の辺りがひやりとする。日当たりが悪いせいか空気が湿っぽく、校舎の中は全体的にじめじめしている。無数の傷や汚れがついた床は、年月の経過を感じさせた。壁は黒ずみ、よく見ると細かいヒビが走っている。生徒の間に、「今年こそ旧校舎は取り壊されるのではないか」と噂が立つのも、わかる気がした。


 どことなく陰鬱な雰囲気が漂う旧校舎だけれど、俺はここに来るたびワクワクしている。

 今日は先生と、どんなことを話そうか。


 廊下を歩いていると、ふいに、背中に人の気配を感じた。

 振り返ろうとした瞬間、誰かにシャツの首根っこを掴まれた。


「え、何」

 

 相手の顔を確認する間もなかった。力が加わり、俺の体は後ろの引っ張られた。背中が倒れるのと同時にシャツの襟がねじれ、ぎりぎりと首が絞まっていく。

 俺は両手で首元を掻いて、息苦しさから逃れようとした。同時に体を無茶苦茶に振って、背後の人物を引き離しにかかる。

 頑張りは叶わず、俺の体は徐々に後方へと引きずられて行った。相手は俺より背が高く、怪力の持ち主らしい。


 やめろ、と叫ぼうにも、首が絞まっていて声が出ない。

 とにかくこれ以上引きずられないようにと、両腕を伸ばす。なんとか窓枠を掴んだ。が、すぐに手が離れてしまう。つま先が浮き、かかとだけがかろうして廊下と接してる状態では、満足に力が入らない。何くそ、と今度は目についた掃除用具入れへと手を伸ばし、しがみつく。相手はさらに勢いをつけて、俺の体を引っ張った。

 指先が滑り、宙を掻く。その拍子に掃除用具入れの扉が開いた。


 首元が緩んだ。そう感じた次の瞬間、背中を殴られた。俺は体を丸め、つんのめった。反射的に、頭を抱える。急にたくさんの息を吸ったせいで、激しく咳きこんだ。

 再び、背中に痛みが走る。今度のは重く、勢いがあった。蹴られたのだと気づいたときにはもう、俺の体は掃除用具入れの中へと倒れこんでいた。


 バンッと、叩きつけるような音がして、用具入れの扉が閉まる。

 暗い視界の中で、埃と黴の臭いが鼻をついた。

 用具入れの中は狭く、十分に体を動かせない。

 試しに肩を当ててみたが、扉はびくともしなかった。

 表にはまだ、人の気配があった。俺に乱暴をはたらいた人物が、外側から扉を押さえつけているのだろう。

 一体、こいつは何を考えているんだ。

 こんなところに閉じこめて、俺をどうする気だ。


「おい! 開けろ! 何やってるんだ! ふざけてんじゃねよ!」

 怒鳴り、肩で扉を叩き続ける。

 相手は答えない。


「いい加減にしろよ! なんなんだよまったく! 出せよ、おい! 出せって! おい!」


 叫び、またしても激しく咳きこんだ。

 自分の呼吸が乱れてきているのを自覚する。

 このままだとまずいぞ、落ち着け。

 そう言い聞かせてみても、息はますます荒くなっていく。

 体が震え、全身に悪寒が走った。


「助けて」


 扉の外に向かって叫んだつもりが、囁き声にしかならない。

 ここから出して。

 そんな懇願すらも、言葉として発せられない状態まで追い詰められていた。やっとの思いで喉から絞り出したのは、ひゅうひゅうという、不穏な呼吸音だけだった。これはまずい予兆だ。

 意識が薄れていくのを感じた。

 俺は祈った。

 お願いします。ここから出してくれるならどんなことでもします。だからどうか助けてください。

 狭く閉じたところが、たまらなく恐ろしいのです。

 

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