楽園(3)
「大丈夫ですか? 小野塚くん」
囁く声に、意識が引き戻される。窮屈な体勢のまま、俺は視線だけを動かした。航汰と目が合う。
収納庫の扉が開いている。
「今そこから出しますからね」
少しの間、収納庫の狭さと格闘した後、航汰に引っ張られて、俺は上半身を起こした。もぞもぞと体の向きを変え、畳に足を下ろす。
俺が立ち上がろうとするのを、脇から航汰が支えにくる。
「力入りますか? 痛いところはないですか?」
「はっ、もう俺のことれい君って呼ばねえんだ?」
俺の嫌味を、航汰はおとなしく受け止めた。
青い顔で、「ごめんなさい」と呟く。
しおらしい航汰なんて、気持ちが悪いだけだっていうのに。
「いいよ、許す。その代わり今からお前も、自分の思うがままに話せ。な?」
航汰の顔を覗きこむ。奴はもう目を逸らさなかった。
「わかりました」
「ところであの変態は?」
尋ねてから、時間も気になった。俺はどのくらい、収納庫の中で気を失っていたのだろう。
「田中先生なら、あそこに」
航汰がクローゼットを指し示す。
中の支柱に縛り付けられた状態で、田中はぐったりと目は閉じていた。こめかみからは血が流れ出ている。
「え、死んでるの?」
「いえ、生きてます。これで殴ったので、しばらく目は覚めないと思いますが」
いつの間にか航汰の手には、重そうなトロフィーカップがあった。台座の文字は薄れ、一体何を記念して創られたものなのか判別できない。おそらくこの部屋のどこかにあったものを、咄嗟に掴んで、田中の頭に叩きつけたのだろう。
「はは、痛そう」
俺がにやりと笑ってみせると、航汰は泣きそうな顔になった。
「小野塚くんに、ずっと隠していたことがあるんです」
航汰はそれから、自らの過去を語った。
多忙の両親からろくに構われず育ったこと。子どもの頃、夏休みになると祖父母の家へ厄介払いされていたこと。祖父母は孫を歓迎せず、余計な仕事が増えたとばかりに、航汰を邪険に扱ったこと。八月の終わりに両親が迎えに来るまで、息を潜めて日々をやり過ごしていたこと。
「家にいると祖父母の目が怖くて、毎日暗くなるまでその辺をうろついて過ごしていたんです。近くには同年代の子も何人か住んでいて、私はその子たちの遊びの仲間に入れてもらいたかったんですけど、自分から声をかける勇気がありませんでした。向こうから誘ってもくれませんでした。たまに道ですれ違っても、みんな私など存在しないかのような態度をとるのです。だから私は夏休みをずっとひとりで過ごしていました」
そんなとき、田中先生と出会ったんです、と航汰は続けた。
「こう君。そう呼ばれて振り返ると、先生が立っていました。ああ、やっぱり君はこう君なんだねと言って、先生は私に微笑みかけてくれました。その瞬間から、私はこう君になりました。二人でいるとき、先生は私の兄として、私は先生の弟として振る舞うようになりました。寂しかった私は、先生が提供してくれる兄弟ごっこにどんどんのめりこんでいきました。毎日のようにこの家に通いました。先生はいつもやさしく私を迎え入れてくれました。私は先生を、本当の兄だと思うようになりました」
俺はなぜ、航汰が今日まで田中の弟を名乗っていたのかを知った。
田中航汰は、田中の死んだ弟の名前だ。ネットで検索すると、横浜在住の美容師のSNSや九州にある大学の駅伝選手の記録とともに、十三年前の転落死亡事故の記事が出てくる。
ゴールデンウィーク最終日の悲劇という見出しの後に、家族四人が乗った車が山道のカーブを曲がり切れず、ガードレールを乗り越えて崖下に転落したと書かれていた。亡くなったのはY町に住む会社員、田中利和、妻の章枝、次男の航汰くん、三男の玲汰くん。
Y町と、家族四人の事故。
それは俺が前に聞いていた田中の過去と一致する。
「田中はそうやって、お前を死んだ弟の代わりにしたんだな」
「はい」
航汰が――正確には航汰と名乗っていた目の前の男が首肯した。
寂しい者同士が出会ってしまった結果、大きな歪みが発生したのだ。
「だけど、田中にはもうひとり弟がいた」
「そうです。だから先生は、どこからか男の子を攫ってきて、あの収納庫に閉じこめました。そうして私には、この中にいるのは僕たちの弟して生まれる予定の子なんだよ、と説明しました。その男の子が小野塚くん、あなたでした。わたしは先生に言われて、時々あなたにおにぎりを差し入れていました」
「うん、覚えてる」
俺が赤飯と梅しそチーズのおにぎりが好きだと言ったら、そればかり差し入れてくれるようになった。収納庫の内と外、お互い顔が見えないまま会話を重ねた。
あのときの少年が、八年後、田中航汰と名乗り、俺の前に現れたのだった。
「四月、田中は騒音問題にかこつけて、俺の元へお前を遣わせた。以来、俺はお前のペースに巻きこまれるかたちで、行動を共にするようになった。図々しく空気を読まない態度も、俺に近づくための演技だったんだな」
そうしてこいつは、俺について知り得たことを、裏で田中に報告していたのだ。報告の中で田中は、俺に霊感があると知る。
そう考えると、盗作を犯そうとした文芸部員が、なぜ幽霊のふりをして俺の前に現れたのかいう謎にも、説明がつく。
田中は、俺に記憶を取り戻させる起爆剤として、関口さんの書いた小説を利用しようとしていた。
問題は、どういうきっかけで俺に小説を読ませるかだ。
都合のいいことに、部内では亡くなった部員のパソコンを触った者は、呪われるという噂が広まっていた。
田中は文芸部顧問という立場を利用して、部員のひとりを唆したのだろう。
おそらく、こんなやりとりがあったものと推測する。
へえ、次の部誌に関口の遺作を掲載したいと? それはいい考えだね、天国の関口くんもきっと喜んでくれるだろう。なら早速、関口くんのパソコンからデータを抜き出さないと。うん、先生のほうから、後で関口くんのご両親に了解を得ておくから、問題ないよ。ええ? 関口くんのパソコンに触ると呪われるって? 困ったな。それなら、一年に霊感のある生徒がいるから、頼ってみたらどうだろう。もし気が引けるというなら、関口くんの霊になりすまして頼んでみたらいいんじゃないかな。そうしたら相手も、快く問題のパソコンを立ち上げてくれるかもしれない。
バカな部員は、田中の言う通りに行動し、まんまと俺に正体を見破られたわけだ。
だがそれ自体、田中の想定内だった。
要は、俺が小説のデータに触れる状況まで持っていければいいのだ。一緒に保存してある男児失踪事件の資料などを呼び水に、俺が記憶を取り戻すと、田中は期待した。
そして実際、俺は抜け落ちていた八年前の記憶を取り戻した。
「お前は田中の命令で、ずっと正体を隠し、俺を見張り続けていた。いつ俺がここでの記憶を取り戻すのか。すべてを思い出したとき、俺がどんな行動に出るか。田中に報告できるように。そうだよな? 田中航汰、いや――」
俺は目の前の男に確かめた。
「蟹江孝介」
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