ポルターガイスト(3)

 ひゅっと、俺は息を呑んだ。

 ドアから離れ、おそるおそる室内を見回す。部屋というより、物置に近い狭さだ。小さな流し台と小型冷蔵庫の他は、大人が二人立つのがやっとというスペースしかない。


 意識した途端、息苦しさに襲われた。呑みこんだ唾に、かすかな苦みを感じる。膝が震えた。俺はその場にへたりこんで、声を絞り出した。

「開けてくれ……」

 例え相手が悪霊であろうと、懇願せずにはいられなかった。何か犠牲を払ってもいい。だからどうかこれ以上は勘弁してくれ。


 こんな狭い場所に閉じこめられ続けたら、大袈裟でなく、俺は死んでしまうかもしれない。


「開けて。ここから出して」

 ドアを叩く。思った以上に拳に力が入らず、パニックになる。寒くもないのに、さっきから歯の根が合わない。

 胸が痛い。うまく息が吸えない。視界がぼやける。

 耳元でちゃぷちゃぷと水が跳ねるような音がしはじめた。

 ああ、これは本格的にやばい。

 血の気が引いた。幻聴が聞こえるほど、俺は追いこまれているのか。

 水音は一瞬遠ざかったかと思ったら、次の瞬間何もかもを押し流す勢いで激しく迫ってきた。

 全身を大波にからめとられ、上下左右をなくすように、俺は混乱のまま意識を手放した。



 ■ ■ ■



「起きろ」という不遜なガキの声で、瞼を開ける。


 あれ……誰だっけ、こいつ。

 ぼんやりする頭で、記憶を辿る。

 俺の目を覗きこむ、生意気そうな顔。そうだ、このガキ、ここへ来たときに見かけた奴だ。


「まったく、これしきで気絶するなど、とんだ軟弱者だな貴様は」

 

 こましゃくれた物言いをして、ガキは俺の傍らから離れた。

 広くなった視界の端に、流し台とポットを捉える。

「給湯室?」

 どうして俺、こんなところで寝ていたんだっけ?

 ……ああ、そうだった。


「ドアは」

 がばりと身を起こして確かめると、ドアは開いていて、その先に照明のついたオフィスが覗けた。眩しさに目を細め、俺はガキを振り返った。

「お前だな、俺をここに閉じこめたのは。ポルターガイストの犯人もお前だろ」


 ガキは悪びれる様子もなく、

「そうだが」

 とあっさり答えた。

「少し、話がしたくてな。貴様にはわたしの姿が見えているようだったから」


「だったら普通に話しかけろよ。なんでこんなところに閉じこめるような真似したんだ」

「二人きりで話したかったからだ。どうにもあの色の白い、発育不良の大根のような顔立ちの男が邪魔でな。あの男から貴様を引き離す必要があったのだよ」

「発育不良の大根ねえ……ああ、そうだ航汰はどこ? 何してる?」

「心配するな、あの男は今もまだ便所で気絶している」

「いや、別にあいつのことなんか心配してねえけど」


 俺はそこで改めて、目の前のガキを観察した。

 こいつの顔には、海馬を刺激する何かがあると、今気づいた。

 たぶん、前にも何度か会っているはずだ。だけど、いつどこで?

 どうにももどかしい。思い出せそうで思い出せない。


「お前、幽霊だったんだな」

 夕方にこのガキと会ったときは、生意気そうだと思ったくらいで、存在自体は不自然に感じなかった。駐車場に車をとめたとき、俺は休日出勤の父親を迎えに来たらしい、母子の姿を見かけていた。

 だからこのガキのことも、親を迎えに来たのだろうとしか考えなかった。


「違う、幽霊じゃない」

 ガキはむきになって返した。

「そういう勘違いが一番癪に障る」


「はいはい、そうですか」

 俺は立ちあがり、軽く全身を叩いて、埃を払った。

 また閉じこめられてはかなわないので、元々座っていたソファまで速足で戻る。

「で、俺に話って何?」


 ガキは俺の正面に腰を下ろした。

「貴様に頼みたいことがある」


「何を」

「お札を剥がしてほしいのだ」

「お札?」

「どうかわたしを、この場所から解放してほしい」


 そう言うと、ガキは小さな頭をぺこりと下げた。



 ■ ■ ■



 社長室の前で、俺はガキに尋ねた。

「本当にこの中に御札があるわけ?」


「そうだ。とても嫌な感じがする。絶対この部屋の中だ」

 ガキが首肯する。


「あのさ、一応確認しておくけど、まさかお前みたいなちんちくりんの正体が、悪霊ってことはないよな?」

 ガキの説明を聞き終えても、俺はまだ半信半疑だった。

 社長――航汰の叔父が貼った御札が作用して、ガキは現在、この社屋に縛り付けられた状態にあるという。夜な夜なオフィスを荒らしていたのは、早くここから解放しろという、ガキなりの抗議だった。


 外に出られないって、窮屈でたまらないよな。

 ちょっと気持ちがわかるから、俺はガキを助けてやることにした。

 方法は簡単だ。貼られているという御札を見つけ、処分すればいい。そうすれが御札の効力は消え、ガキは晴れて自由の身、どこへでも好きなところへ移れる。


 それで御札があるという社長室の前まで来てみたけれど、いざ行動を起こすとなったら、不安が芽生えた。

 ガキは御札の力でこの地に縛り付けられている。言い換えれば、封印されているのだ。

 どんな事情があってかは知らないけど、封印されるくらいだから、人に害をなす存在なんじゃないか。

 こいつの封印を解いてしまったら、恐ろしいことがおきるんじゃないか。


「悪霊なわけなかろう。むしろその逆だ」

 堂々とした口ぶりでガキは言う。

「よく考えてみろ。わたしが悪霊だというなら、なぜこのようなちっぽけな会社が封印場所になる?」


「あ、そっか」

 古今東西、悪霊を封印するならそれなりに雰囲気のある場所な気がする。イメージとしては、長い歴史のあるお寺や神社。

「わかったよ。それじゃあちゃちゃっと、御札剥がしてきてやりますか」


 俺は社長室のドアを開けた。

 社内を案内されたとき、航汰の叔父からは絶対に入らないように言われていたのが、まあ大丈夫だろう。バレなきゃいいんだ。

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