黒影(2)
「打撲だね。全治二週間ってところらしい」
放課後、国語資料室で待ち構えていた俺に向かって、田中先生はそう説明した。普段であればアームカバーを装着しているだろう先生の左腕には、現在真っ白な包帯が巻かれている。
「警察の話では、あの現場にいてこの程度の怪我で済んだのは奇跡だって。利き腕でもないから、仕事に大きな支障も出ないだろう。だから健斗もそんな顔しないで」
先生が苦笑いを浮かべる。
鏡で確認しなくともわかる。俺は今、死人のような顔をしているのはずだ。
今朝早く、先生が事故に巻きこまれたと知ってから、こうして自分の目で無事を確認するまで、本当に生きた心地がしなかった。
「すごく心配したんですよ。先生にもしものことがあったらって考えて」
「そうか。悪かったね、健斗を不安にさせるような真似をして」
「そんな、謝らないでください。悪いのは事故を起こしたドライバーですよ。先生に怪我を負わせて、他にも九人が病院に運ばれたってニュースサイトで見ました」
休み時間のたびに様々なサイトにアクセスし、事故を目撃したという人のSNSまでチェックして、俺は情報をかき集めていた。
交差点の手前でハンドル操作を誤ったトラックが、前にいた乗用車四台をなぎ払うかたちで歩道に突っこむという事故で、田中先生を含めた七人の歩行者が負傷した。頭を強く打つ、腰の骨を折るなど、六人は重傷を負ったが、ただひとり田中先生は軽傷で済んだ。
「まさか一日中スマホばかり見ていたんじゃないだろうね?」
先生は誇張して目つきを鋭くするが、口元は笑っている。
「いや、授業中はちゃんと電源切ってましたよ」
「それならいいけど」
「だって全然先生から反応返って来ないし、情報収集していないと落ち着かなくて」
「学校に連絡を入れた後は、病院で手当てを受けたり、警察と話をしたりと、忙しくてね」
そこで先生は「そういえば」とポケットからスマホを取り出した。
「かなり早い時間に僕のとこへメッセージ来てたけど、健斗はどうやって事故のことを知ったんだい?」
先生が事故に巻きこまれたらしいと垣内から知らされた直後、俺は先生に無事を尋ねるメッセージを送っている。始業時刻よりだいぶ早い時間帯だったので、先生はどうして俺が登校していたのか、不思議に思ったらしい。
部活が忙しい生徒に代わり、図書委員を引き受けたこと、今日はその引継ぎのためにいつもより早く登校していたことを、簡単に説明した。
「垣内が図書室の鍵を取りに職員室へ行って、そこで先生が事故に遭ったって聞いてきたんです」
先生はなぜか、俺が図書委員を引き受けたことに驚いていた。
「健斗はますます学校生活を謳歌しはじめているね」
「はい、これから放課後は委員の仕事が入るんで、今までのように先生とゆっくり話せなくなるのが残念ですが、こういう役割を任されるのって初めてだから、ちょっとワクワクもしています」
「図書室の具合は、大丈夫なのかい?」
「はい。図書室って初めて入ったけど、広くて窓も多いし、カウンターの中もゆったりしていて、閉塞感とかはなかったです。なんとかやっていけそうです。それに垣内も同じ図書委員だから、わからないことがあればすぐに訊けますし」
「ああ、そうか。健斗は垣内と仲がいいんだったな」
「仲がいいかはわかりませんけど、クラスの中では一番よく話しますね」
先生は目を細め、眩しそうに俺を見た。
「本当に健斗は変わったなあ。すごいよ」
先生と出会った頃はまだ、まさか自分に、同年代の奴らと打ち解けあう日が訪れるなど、想像もしていなかった。
まず、俺と先生が二人とも問題なく学校に通えていること自体、あの頃は考えられなかった。
「先生のお陰です」
へへへ、と俺は視線を外して照れ笑いを浮かべた。それからすぐに今の笑い方はちょっと気持ちが悪かったかと不安になり、先生のほうを窺った。
俺は笑いを引っこめた。
先生は暗い顔で、右ひざを細かく上下させていた。
それは、俺が初めて目にする先生の姿だった。
落ち着きがあり、所作には優雅さが漂う先生が、こんなふうに貧乏ゆすりをするなんて。
たいしたことないと言っていたが、実は怪我した腕が痛むのだろうか。
「……大丈夫ですか?」
そっと尋ねると、先生はびくりと肩を震わせ、俺を見た。
「ごめんごめん、痛み止めを飲んでいるせいかぼうっとしてしまって」
と弱々しく笑う。
じわりと、腹の底で何かがうねるのを感じた。
事故を起こしたトラックのドライバーが憎らしかった。先生に怪我を負わせるなんて、許せない奴だ。
「トラックのドライバーは居眠り運転でもしていたんでしょうか」
怒りを押し殺そうとして、完全には殺しきれず、思いのほか不機嫌な声が出た。
「どうかな。違うらしいけど」
と、先生は煮え切らない言い方をする。
「どうしたんですか?」
俺が身を乗り出すと、言う言わないの葛藤があるのか、先生は微かに唇を震わせた。それから目をつぶり、
「実は警察の人が、おかしな話をしているを聞いてしまったんだ」
と、諦めたように打ち明けた。
「ドライバーは事故を起こす直前、目の前を横切る黒い影を見たと言っているらしい。それで慌ててハンドルを切ったんだと」
「黒い影……猫か何かですか。あるいは、風で黒いレジ袋みたいなものが飛んできたとか」
「いいや、あっという間のことだったから全部見ていたわけじゃないけど、特に猫や動物の姿は現場になかったと思う。それに、風も吹いてなかった。他の目撃者もそう証言している」
「じゃあドライバーの勘違い? 責任逃れのための嘘?」
「それが……今回だけじゃないらしいんだ」
先生はためらいがちに告げた。
「今回のような大事故とまではいかなくても、あの交差点付近では以前から、小さな接触事故なんかが頻発しているというんだ。そして事故を起こしたドライバーは揃って、黒い奇妙な影を見たと訴えている。影に気を取られたのが原因の前方不注意、ハンドル操作の誤りが事故の原因らしい」
確かに、おかしな話だった。
事故が起きやすい交差点というものは各地に存在するが、その発端がすべて黒い影を見たからだなんて、聞いたことがない。
何か、不吉なものが絡んでいる気がする――。
「まあ、単なる偶然が続いただけだろうから、そんなに深刻に捉えなくてもいいよ。何を見間違えても、結局は黒い影という表現に行き着くのだろうし」
と先生がたしなめるように言う。
「悪かったね、変なこと言って」
まともな大人として、怪談的な話をすることに抵抗があったのだろう。先生は表情に後悔の色をにじませた。
「あはは、そうですよ。でもちょっとゾクッとしました」
俺は何も気にしていない風を装って返したが、さっきから胸の辺りが騒いでいた。
偶然も重なり続ければ、必然となる。
見間違いでなく、黒い影は、本当に存在しているんじゃないだろうか。
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