黒影(1)

 学校に着く頃には、背中がうっすらと汗ばんでいた。

 十月に入っても尚、だらだらと残暑が続いている。ときたま、それらしい風が吹くときもあるが、秋の気配はまだ遠い。


 図書室の前には、猪俣が来ていた。俺に気づくと、

「悪いな、朝早くから」

 と猪俣はすまなそうに眉を下げた。


「全然。俺んち近いし。むしろ猪俣のほうが大変だったんじゃねえの?」

 いつだったか教室で猪俣が、通学に一時間以上かかると話していたのを思い出した。


「いや、俺は朝練で早起きとか慣れてるから」

「ああ、そっか」


 猪俣は頑丈そうな体を丸め、短く刈った頭を掻いた。

「でも本当、助かったよ。小野塚が引き受けてくれて」


 図書委員を代わってくれないか。

 同じクラスの猪俣からそう頼まれたのは、つい昨日のことだった。

 猪俣は図書委員の他、バスケ部にも所属している。部内での期待は大きく、最近では一年生でただひとり、ユニフォームを渡されるまでになったらしい。

 以前より部活の練習時間が増えたことにより、猪俣は図書委員の当番に顔を出すのが難しくなった。

 そこで、委員会にも部活にも所属していない俺に、話が回ってきたのだった。


 図書委員なら暇そうだし、いいか。どうせカウンターに座っているだけの仕事だろう。

 俺は二つ返事で、猪俣の代わりを引き受けることにした。


 こうして朝に待ち合わせたのは、猪俣から図書室での仕事の流れを教えてもらうためだ。


「今日はバスケ部、朝練ない日?」

「そうなんだよ、珍しく」

「猪俣ってなんで最初、図書委員になったの?」

「そりゃあ本が好きだからだよ」

「え、本読むの?」

「あ、小野塚もしかして、バスケ部員はもれなくバスケにしか興味のない脳筋野郎だと思ってる?」

「違うの?」

「うわあ、偏見は良くないって。悪いけど俺、自分のことまあまあ読書家だと思ってるからね」


 図書室の鍵を取りに行ってくれているというもう一人の委員を待つ間、俺と猪俣は雑談を続けた。

 夏休みが明けたくらいから、俺はクラスの奴らと打ち解けはじめた。今では大抵の相手と軽口を叩けるまでになっている。学校という場に慣れたためか、俺はクラスメイトと話すとき、余計な力を入れなくなった。そうすると相手も自然と、俺に話しかけてくれるようになった。

 

「やべ、喋ってるだけで汗かいてくる」

 猪俣がネクタイの結び目に指をかけ、わずかにゆるめながら言った。


 ノーネクタイでワイシャツの裾をしまってもいない俺に対し、猪俣はきっちりとネクタイを結び、ブレザーまで着ていた。


「なんでそんなもん着てるの? 暑くないの?」

 俺は猪俣のブレザーの袖口を摘まみ、尋ねた。黒色のせいか、うちの学校のブレザーは重たく見える。


「暑いよ。でももう十月入って、衣替えしたじゃん」

「だからってこの暑さの中、律義にブレザー着てくる奴もいないだろ。一学期だってそうだったじゃん」


 今年の春は暖かかったから、確か四月の時点でみんなブレザーを脱いでいた。一応、六月の衣替えまではブレザー着用が望ましいと校則にはあったが、汗をかきたくないという理由で、大多数が守ってはいなかった。


「うちの部厳しいから、普段から服装とかちゃんとしてない奴は活動禁止、試合にも出さないって方針なんだ」

 猪俣がため息を洩らす。それから図書室の扉のガラスを覗き、時計を確認した。

「遅いなあ、垣内さん。どうしたんだろう」


「あれ? もう一人の図書委員って垣内だったの?」

「ああ、言ってなかったっけ」

「うん。垣内、何時ごろ来た?」

「小野塚が来る十分前くらいには、鍵取りに向かったと思うけど」


 昇降口で顔を合わせ際、猪俣は垣内から、元々職員室に行く予定だったから、ついでに自分が図書室の鍵を取って来る、と言われたらしい。その後、猪俣は教室に寄って荷物を置いてから、図書室まで来たという。

 垣内は用事を済ますのに、思いのほか時間がかかっているのだろうか。

 図書室の鍵がないことには、仕事の引継ぎもできない。

 職員室まで、様子を見に行こうか。俺と猪俣がそう話していた矢先、


「ごめん、遅くなった」

 垣内が姿を現した。

 よほど焦って来たらしい、息を弾ませ、額には汗の粒を浮かせていた。


「ちょうど今、迎えに行こうかって話してたんだ」

 猪俣が言った。


「そうだよね、ごめんねえ」

 垣内は落ち着かない様子で、うなじにまとわりついた髪をはらった。


「ううん、そもそも俺の都合で、仕事の引継ぎに付き合ってもらっちゃってるし」

 申し訳ないという気持ちがあるとき、頭を掻くのが猪俣の癖らしい。ゴツゴツした指が、今も頭の上で動いている。


「大丈夫? 用事は済んだ?」

 俺は垣内に向かって尋ねた。

 すると垣内はぶんぶんと大きく頭を振り、力んだ声で否定した。

「違うの、時間がかかってたのは別に用事を済ますのに手間取ったとかじゃなくてね、職員室で先生たちの話を盗み聞きしてたからで――」


「え、何かあったの?」

 猪俣が眉をひそめる。


 垣内はごくりと唾を呑みこむと、一息に言った。

「サクラちゃん……田中先生が今、交通事故に巻きこまれて病院に運ばれたって」

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