[少年・5]
兄は今日、帰りが遅い。
大学の後、そのまま家庭教師のアルバイトに向かうと言っていた。
「僕がいない間、れい君の世話をしてね」と兄から頼まれていたので、少年は合鍵を使って、昼過ぎにれい君の元へ行った。
収納庫にかかる鎖状の鍵を解き、たゆませる。そうしてわずかに開くようになった扉の隙間から、おにぎりを差し入れた。前にれい君が好きだと言っていた、赤飯と梅しそチーズのおにぎりだ。
「ありがとう」と言うれい君のか細い声が、中から聞こえてきた。それからおにぎりの包装を剥く音がした。
「まだそこにいる?」
「いるよ」
「昨日は来なかったね」
「ああ、うん。おばあちゃんが転んで怪我をしたから、一緒に病院に連れて行かれてて」
「おばあちゃん、病気なの? 大丈夫?」
この状況で、れい君は少年の祖母の身を案じている。
なんて優しい子だろう。
少年は歯がゆさを感じた。
孫をいないものとして扱う祖母のことなんて、心配してくれなくていいのにな。
「おばあちゃん、早く元気になるといいね」
「そうだね」
少年のあくびが聞こえた。
「眠いの?」
「うん、昨日はいっぱいあの人とお話してたから、疲れちゃった」
「へえ、お兄ちゃんといっぱいお話してたんだ?」
ずるい、と少年は思った。
昨日、自分は祖父に邪険にされながら、病院の待合室で気詰まりな時間を過ごしていた。一方でれい君は、兄と楽しい時間を過ごしていたのか。
どうして兄は、れい君を気にかけるのだろう。
近頃の兄は、自分よりもれい君のほうに強い関心を示している。
まだ明確な差をつけられていはいないが、兄が自分を構わなくなるのも、時間の問題だろう。
れい君なんか、いなくなればいいのに。
「ねえ、れい君?」
「なあに?」
「そこから出してあげようか?」
「え?」
れい君は困惑のまじった声で、少年に訊き返した。
「いいの?」
「お兄ちゃん、今日は帰りが遅いんだ。だから今のうちにこっそり逃がしてあげる」
「でも、そんなことしたらあの人に叱られない?」
「鍵が歪んでて、勝手に開いちゃったことにするから大丈夫だよ」
自分がこの家を出た後に、れい君が自力で抜け出したように見せかける必要がある、と少年は考えた。
れい君が収納庫の中で大暴れした拍子に、鍵がゆがみ、鎖が解かれた。それでれい君は家の外に出てしまった。
自分はきちんと兄に言われた通りにしていた。鎖の鍵もかけたし、家の戸締りをしてから帰った。
悪いのは、勝手に出て行ったれい君だ。
そう兄に思わせなければいけない。
わざとれい君を逃がしたと知れたら、兄は二度と自分に優しくしてくれなくなるだろう。
「ゆっくり百まで数えたら、蓋を思いっきり蹴ったり叩いたりしてみて。そうしたら鍵が外れるはずだから」
「わかった、やってみる」
箱の中から、れい君が答える。
「じゃあ、頑張ってね」
「あ、待って」
少年が立ち去ろうとすると、れい君が呼び止めた。
「何?」
「僕だけ逃げていいの?」
「え?」
「えっと、こう君は一緒に逃げなくていいの?」
「どうして僕が逃げなくちゃいけないの?」
「だってこう君、本当はここに居たくないんじゃないかなと思って」
れい君がぽつりと言った。
「こう君も、ここの家の子じゃないんでしょう?」
少年は沈黙し、れい君が入っている箱を凝視した。
少年の唇が微かに動く。「僕も連れて行って」
だけどその声は小さすぎて、れい君の耳には届かなかった。
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