箱と楽園
未由季
うるさい(1)
田中先生の机の上には、楽園がある。
それはありふれた二階建て住宅。家の前には車一台ぶんの駐車スペースがあり、その横はこじんまりとした庭になっている。昔、先生が家族と暮らしていた家だ。
折にふれて、先生は語る。
「母は僕を生んだ後、流産と死産を経験してね、思い返せばあの頃が一番、僕たち家族にとって重く苦しい時期だったな。何年かして、弟たちが無事生まれてくれたときは、とても嬉しかったよ。二人とも難産でとても心配したぶん、いざ顔を見たらかわいくてかわいくて」
そこで、先生は決まって遠い目をする。
「弟たちのいるあの家が、僕にとっての楽園になったんだ」
楽園とは、苦しみがなく、幸福のみが存在する場所。
俺はその【楽園】がおさまった写真立てを眺めながら、大きなあくびをした。
カーテン越しに受ける陽の光はとろりと甘く、油断をすれば瞼が落ちてくる。
「寝不足かい?」
レポート用紙の束をめくっていた先生が、手を止めて尋ねてくる。シャツの袖口を汚れから守るために、今日も先生の腕には、トレードマークの黒のアームカバーがはめられている。先生はきれい好きなのだ。
「健斗は最近、授業中よく居眠りしているようだけど」
二人きりのとき、先生は俺を下の名前で呼ぶ。
「もしかして職員室で噂になってますか?」
だとしたらまずい。俺は田中先生の期待を裏切りたくない。
今の俺がこうして高校生なんてやっていられるも、ほとんど先生のお陰なのだから。
優等生にはなれなくとも、せめて問題を起こさない生徒でいたい。
「授業中に机に突っ伏していれば、さすがに目につくからね。今はまだお叱りの声より、健斗を心配する声がほうが多いけど、このまま居眠りが続くようだと――」
わかるだろう? 問いかけるように、先生は眉を上げた。
「家に連絡されますか?」
「そうだね。健斗の態度にもよるだろうけど」
先生はレポート用紙の束を脇に押しやると、片手で頬杖をついた。
「健斗、夜よく眠れていないんじゃないか?」
じっと俺の目を覗きこんでくる。
「何か心配事が? どんな些細なことでもいい、悩みがあるなら話してごらん。ここでは僕が健斗の保護者だ」
別に悩みなんてありませんよ。咄嗟にそう白を切るのは簡単だ。
だけど先生の前では、なるべく正直者でありたいと、俺は思う。
「実は最近、うるさくて夜眠れないんです」
俺は言葉を選んで言った。この程度なら打ち明けてもいいんじゃないか。
「うるさいって、外が?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
「では隣近所か。上の階……は、違うよな。健斗の部屋は最上階だし。てことは隣の部屋か」
「ああ、えっと、なんていうか、夜になるとうるさい人が部屋まで来るんですよ」
「友達?」
「違います」
「相手は一人?」
「はい」
「健斗はその相手に迷惑している?」
「まあ、はい、そうですね」
「そうか、最初に注意しておくべきだったな。僕の落ち度だ」
田中先生はため息をつくと、頭を振り、前髪を掻き上げた。演技がかっていると、普通ならば鼻白むような仕草だが、先生の場合は様になっている。
「健斗の年齢でひとり暮らしなんかしていると、そういう輩に目をつけられやすいんだ。大方、健斗の部屋をたまり場として使いたいのだろう。確認するけど、健斗のほうは本当に相手を友達だとは思っていないんだね?」
「はい、まったく」
「相手と関係を断つことで健斗の心が傷つかないのなら、この際はっきりと、もう来ないでほしいと伝えていいんじゃないか」
「言えるならとっくにそうしていますよ。ていうか相手、全然聞く耳持たない感じで」
「話し合いで解決するのは難しそうか」
「そうですね」
俺が肩を落とすと、先生は反対に肩をいからせた。
「よし、それじゃあ今晩にでも僕が行って、相手と話をつけてあげよう」
「え? そんな、いいですよそこまでしてもらわなくて」
俺は慌てて首を振った。
問題の相手に会ったら、いいや、会えなかったら、先生はますます俺を心配するはずだ。
これが他の奴なら、どうでもいい。頭がおかしいと思われるのなんて慣れている。
だけど田中先生にそう思われるのだけは、絶対に避けたかった。
先生との関係を、俺は失いたくない。
「だけど、このままだと安眠できないだろう? これ以上授業中に居眠りさせるわけにもいかないし」
俺の反応は相当怪しかったらしい。先生は探るような目つきになって言った。
「それとも、僕が部屋に行ったらまずい理由でもあるのか?」
「え、違いますよ。だってほら、先生が出てきたら大事になるというか、子どものケンカに親が出てくる感じに似てません? そういうのはちょっと避けたいかなーっと思って。僕もほら、高校生になったわけですし」
そう言って、もじもじしてみせる。
我ながら気持ち悪い反応だけど、仕方がない。先生の行動力には並外れたものがあると、俺は出会ってから何度も感じてきた。
なりふりなんて構っていられない。何がなんでも、この場で先生が部屋に来るのを阻止しておかないと。
「それにほら、先生って家に帰っても色々とやることあるんじゃないですか? よくわかんないけど、授業についての調べものとかさ」
思い当たるふしがあったのだろう。俺の言葉に、先生は唸り声をもらし、考える顔になった。
今のうちにと、俺は帰り支度をはじめる。放課後は先生のいる国語資料室で過ごすのが定番だけど、しばらくは来るのを控えようか。今みたいに追究されたのではかなわない。
「とにかくさ、自分でなんとかしてみるから、先生は心配しないで。あ、僕そろそろ帰りますね」
通学鞄を肩にかけ、パイプ椅子から立ち上がった俺を、先生はすぐさま呼び止めた。
「ちょっと待ちなさい健斗。大人に出てこられるのが恥ずかしいのだろう。ならば今夜のところは、代わりに僕の知り合いを健斗のところへ行かせようか」
いやいや、なんでそうなるんだよ。
叫び出したいのを、ぐっと唇を噛んで堪える。
そんな俺を横目に、先生はさっさとその知り合いという奴のところへ、メッセージを送ってしまった。
「先生の知り合いってことは、その人だって大人なんじゃないですか」
「いいや、まだ十代だ。健斗の三つ上だから、十八歳」
「十八は大人ですよ」
俺の指摘に、先生は苦笑いを浮かべた。
それにしても、その知り合いと先生はどういう関係なのだろう。友人と呼ぶには、少し年が離れていないか。
「いい子なんだよ。この学校の卒業生で、僕の元教え子。きっと健斗の力になってくれるはずだ」
「先生、卒業した生徒と個人的に連絡とってるんですか?」
俺の声は、ちょっと僻みっぽく響いたはずだ。
無性に胸の辺りがもやもやする。
先生は何がおかしいのか、にやりと笑った。
「大丈夫。君たちはきっと気が合うはずだよ」
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