楽園(6)

 航汰と話すのに真剣になるあまり、田中に注意を払うのを怠った。


「どうしたの?」と尋ねる声に驚き、振り返る。

 

 いつから目覚めていたのか、そこには悠然と立つ田中の姿があった。

「二人とも、何をさっきから言い合いしているのかな?」

 どうやったのか、すでに拘束を解き、自由の身となっている。


「くそが、いつの間に……」

 俺が舌打ちをすると、田中は目を吊り上げた。


「やんちゃなのはいいけど、れい君、少し口が悪いよ」

「そういうあんたは、頭のてっぺんから爪の先まで極悪だよ」

「こんな兄でも、二人は好いてくれているのだろう?」

「は、虫唾が走るね。あんたは俺の兄じゃねえ。あんたの弟はとっくの昔に二人とも死んでんだよ。いい加減現実見ろ」

「死んでないよ」


 一歩、二歩と田中が距離を詰めてくる。

 俺はさっと視線を走らせ、何か武器になりそうなものはないかと探した。さっき孝介が田中を昏倒させるのに使ったトロフィーカップが、畳の上に転がっている。咄嗟に手を伸ばすには、遠い距離だ。

 俺は武器を諦め、拳を握った。

 奴が動くタイミングを見極めるため、呼吸を浅く保つ。


 すぐに襲いかかってくるという予想に反し、田中はぴたりと足を止めた。

 よく見ると、体重のかけ方がおかしい。田中の体は右に傾いている。

 昏倒する際、足を捻るかして痛めたのだろうか。


 突然、田中は唇の隙間から「ひぃぃん……」と高い悲鳴を洩らした。それからぼろぼろと涙をこぼしはじめた。


「行かないでよ二人とも。また二人して、お兄ちゃんをひとりにするのかい? 一体何が不満なの? 兄弟は死ぬまで一緒にいなきゃいけないのに。お兄ちゃんは二人のこと、ずっと大切に守ってあげてきたじゃないか。それなのにどうしてお兄ちゃんを嫌うんだい? ここで兄弟三人仲良く暮らそうよ。この【楽園】で、死ぬまで一緒に」


 言っていることはめちゃくちゃなのに、不覚にも胸をうつものがあった。

 支配してやる。搾取してやる。そんな黒い欲望を一切感じさせない、純然たる想いだった。

 田中は本心から、俺と孝介を好いて、一緒にいたいと願っている。

 一緒にいられるものと、信じている。


「先生……」

 孝介が感傷的な声を洩らした。


 駄目だ、引っ張られるなよ。

 こんな男のことを、少しでも理解してやろうなどと思うな。寄り添ってやろうなんて考えるな。そんな優しさは、絶対に見せちゃいけない。

 俺は目で孝介に訴えかける。


「信じてたんだよ、あんたのこと。不登校だった俺を助けてくれた。俺を理解してくれていると思ってた」

「そうだよ。僕以上にれい君を理解している人間はいないよ。お兄ちゃんがこれからもれい君を守ってあげる。れい君をいじめる奴がいたら凝らしめてあげるよ。だかられい君、お兄ちゃんのところへ戻っておいで」


 さあ、と言いながら、田中が両腕を広げる。

「おいで、れい君」


 俺はゆっくりと首を横に振った。

「俺は騙されて、あんたの兄弟ごっこに付き合わされてきた。あんたの理想の弟に育つよう仕組まれ、誘導されていた。そうだろう? あんたのせいで閉所恐怖症になったのに。そのせいで学校に行けなくなったのに。理解者ヅラして俺の前に現れて、俺の力になるふりをして家族の元から離して。そうして、こいつと引き合わせた」

 孝介のほうへ顎をしゃくる。

「すべてはあんたの計画通り」


「計画? 違う、運命だよ」

 田中が小さく笑みを浮かべる。

「生き別れだった兄弟の再会。僕はその運命を少し演出してあげただけだよ。そして今日ここに兄弟は揃った。僕達兄弟はこの【楽園】に舞い戻ったんだ」


「は、気色悪い。あんたのくだらない妄想に、もう俺たちを付き合わせるな」

 吐き捨てるように言い、俺は田中に背を向けた。

「ほら、行くぞ孝介」

 四人をこの手で見つけ出してあげられなかったのは残念だけど、後は警察に任せよう。ここを出たらすぐに通報するんだ。田中の悪事を全部話してやる。

 ここへ来ると決めたときから、覚悟はできているのだから。


 孝介の肘に触れ、促す。

 孝介は動かない。


「私は……私は、怖いです」

 ぎゅっと目をつむり、孝介は俺の手を払い除けた。

「ずっと田中航汰として生きてきた。蟹江孝介と名乗っていても、心はずっと田中航汰だった。今さら孝介には戻れない。蟹江孝介という人間はこの世から消えてしまっているんです。私は何者で、これからどう生きていけばいいのか、わからない。怖い。怖いです」

 

「蟹江孝介は、消えてなんかいないよ。お前はまだ自分自身をわかっていないだけだ。安心しろ。お前がどんな人間かは、俺が教えてやるよ。お前はオカルト好きでやかましく図々しい、空気を読まない迷惑野郎だ。ところかまわずトラブルに首つっこんで、危ない目に遭ったりなんかする大バカだ。無職のくせに将来に焦りもせず、毎日親の金でぬくぬく暮らす甘ったれだ。俺の親の気持ちにまで気を回してくれて、叔父に頼られたら二つ返事でかけつけてやる、すっげぇいい奴だ。それがお前、蟹江孝介だ」


 結局、孝介は一度しか俺をれい君と呼ばなかった。

 こいつの中の俺は田中玲汰でなく、小野塚健斗なのだ。

 孝介は完全に田中に洗脳されているわけじゃない。

 今、こいつは葛藤し、戦っている。

 自分の意思で、田中の呪縛から逃れようとしている。


 不衛生で窮屈な箱。薄暗い部屋。六畳一間の地獄。

 少年だった孝介は、小さな手で、俺を監禁場所から逃がそうとしてくれた。

 あの日、俺は孝介の呟きを聞いた気がした。

「僕も連れて行って」

 それなのに、俺はひとりで逃げてしまった。

 俺が置いてきてしまったのは、四人の少年の霊だけじゃない。

 鎖をたゆませ、俺に逃げる隙を与えてくれたあの男の子のことも、俺は置いてけぼりにしてしまったのだ。


 怪物に囚われ、怪物に育てられてしまった男の子を、今度こそ俺は、元の世界に戻してあげなきゃいけない。

 あの日を、やり直すんだ。


 今払い除けられた手を、再び孝介へと伸ばす。

「行こう、孝介。悩むことなんてない。簡単な選択だよ。お前はただ俺の手を取ればいい。幽霊も妖怪も地球外生命体もUMAも、お前が見たいっていうもの全部俺が見せてやる。ツチノコだろうが河童だろうが雪男だろうが、いつか絶対に遭遇させてやるよ。二人でいたら一生飽きないぞ。だからほら、俺と一緒に来い」


 わずかに孝介の足に力が入る。

 間髪入れずに、田中が叫ぶ。

「こう君、勝手は許しませんよ!」


 田中を無視して、孝介は俺の手を取った。

「ふふふ、河童と会うの、子どもの頃から夢だったんですよ」


 俺は孝介を強くこちらへ引き寄せた。

 尚も田中が叫ぶ。顔には焦りの色が浮かんでいた。

「何をしているのです! 行ってはいけません。二人とも、お兄ちゃんの言うことが聞けないのですか」


 俺はそんな田中を鼻で笑ってやる。

「は、まだ言うかよ」

 それから、決めておいた言葉を放った。

「もういいよ。離れて」

 

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