第2話 転生したのはいいのだが
「あああああっ!!」
声を上げながら、男は目を覚ました。
(なんだ……さっきのは……夢……なのか?)
とにかく、ひどく気分が悪い。頭もぼんやりしている。
それでも、だんだん意識はクリアになっていき、周囲の光景が目に入ってくるが――
それは、見慣れた、さほど物がないくせに散らかっている自分の部屋の様子でもなければ、隣の家の白い壁しか見えないサッシ窓からのぞく外の様子でもなかった。
四方八方、石の壁に覆われた地下室のような場所。
湿気がひどく、カビ臭さと血生臭さがブレンドされたような、慣れない匂いがする。
彼は今、その壁の一方に背中をつけ、座り込んだような姿勢になっていた。
いくつもアンティークなデザインのランプが灯っているので、そこそこ明るさはある。
ちょっと顔を上げると、少し離れた所に、黒い服を着たスラッとしたスタイルの女と――鎧に身を固めた体格のよい騎士みたいな姿が見えた。二人は何か話し合っているようだ。
(騎士……だよな、あれ……どこなんだ、ここは……)
◇◇◇
彼、の名前は鈴木与一、二十五歳。業界中堅どころのソフトウェアメーカー「ママネックス」のシステムエンジニアである日本人青年。
この会社、彼も開発に携わった、主に中小企業向けの経理ソフト「けいりっくんクラウド」がヒットし、結構好調な業績をあげていた。
彼の勤務状態も、決して楽とは言えないものの、ブラックとはほど遠いものであった――三ヶ月前、二〇二二年五月下旬、までは。
その日、何者かが仕掛けたコンピューターウィルスのために「けいりっくん」の専用サーバーがダウンした。
それはとりもなおさず、このソフトを使っている多くの会社で、一斉に経理業務がストップしたことを意味していた。
ママネックスは、会社創立以来の危機に陥った。言うまでも無く、同社はすぐシステム復旧を試みたが、また新しいコンピューターウィルスが注入され、再び機能停止に陥る始末だった。
こうなるともはや他の選択肢はない。ママネックスの経営陣は、信頼性が地に落ちた「けいりっくん」を放棄し、よりサイバーセキュリティを強化した後継ソフト「ざいむっくんクラウド」を緊急開発することを決定した。
鈴木与一は、「ざいむっくん」完成までのつなぎとしての「けいりっくん」の改良と、取引先に謝罪し、何とか新ソフトを使ってもらうようお願いする外回りの仕事に回された。
やってもまた破られるかもしれない応急対策と、人に頭を下げることだけに費やされる日々――何一つモチベーションが保てない仕事を前に、彼の同僚たちは、一人、また一人と、体を壊してリタイアしたり、転職したりしていった。
新ソフト開発ではない方の業務に、会社は人員を割かなかった。いなくなった者の分の仕事は、残った担当者が受け持たなければ仕方ない。この悪循環のために、彼もいよいよ、休日はなくなり、一日に三時間寝られたらマシだという生活になっていた……
◇◇◇
ちょっと待てよ、状況を整理するぞ。
昨日もむちゃくちゃ暑さがキツかった。確か警報も出てたなあ。
外から会社に帰ってきた後、すごく気分が悪くなって、早退して家に帰ることにしたはずだが……あれっ、途中からよく覚えてないぞ……確か救急車に乗せられた、ような……
「――と言うことは、まさか俺、死んじゃった……の、かなあ?」
今、ここにこうして居るので、死の実感が持てなかった。
両親と弟の
他に会いたい人がいるか? うーん、友人もほとんどいなかったし……彼女?
はっ、そんなん、女の子とお付き合いしたこともなかったぜ。
いや、もちろん恋愛願望はあったよ。いっぺんくらいナ二もしたかったよ。
でもなあ……ご趣味は、と聞かれてもマンガを読むこととしか答えられないような男では無理だっただろうな。
(まあ、同僚は泣いてくれるかもな、仕事増えるから……で、これは何だ? 死後の世界か? それとも、あそこに騎士みたいなのがいるな……と言うことは、俺を不憫に思ったどっかの
だったら真っ白い部屋みたいな異空間で
でも、無かったものは仕方ねえ、自力でこの状況を把握するしかないな。
「痛っ!!」
立ち上がろうとしたが、ズキッと頭に強い痛みを感じ、できなかった。
どうやら自分は怪我をしているらしい。おそるおそる頭に手を伸ばし、包帯が巻かれていることに気づいた。
その際、自分の髪が、前とは似ても似つかぬ金色の長髪になっているらしいことに気づいた。
「え……!」
慌てて、今の自分をチェックした。
いわゆる細マッチョの、均整の取れた体型。
タッパもありそう。中肉中背というにはちょっと小柄な、以前の姿とは大違いだ。
赤色やエンジ色など、同系統の色でまとめた、結構お洒落な上下の衣装に、茶色のロングブーツ。
体の要所要所を保護するように、動物の皮革と思しき素材でできたプロテクターを装備している。
そして腰には、朱塗りの鞘に収められた日本刀のような剣。
「ひょっとして、これ……」
自分の髪型やコスチューム、周囲の背景、そしてさっきまで見ていた夢? かどうか分からないがとにかくあの光景を総合して、俺は自分がどうなったのかについて、一つの推測を得ていた。
(もしかして、できるんじゃないか?)
心の中で唱えてみる。
(《
途端に、床についていた自分の右手の周りに丸い魔法陣が現れ、手が床の中にスッと潜り込んだ。
やっぱりできた。
小さな鏡を取り出す。
別にオシャレで持っているわけではない。ダンジョンに挑む冒険者が、物陰から敵の様子を覗くために、大抵装備に入れている物だ。
鏡で自分の顔を見る。
一昔前の、海外のロックスターのような金色の長髪。現在は頭にぐるりと少し血が滲んだ包帯が巻かれていたが。
瞳は碧眼で、まあ、ちょっと輪郭がゴツいが、十分イケメンの範疇に入る顔立ちだろう。
そして特徴的なのは、顎の下に、十字の――正確に言うとアルファベットのXのような――小さなアザがあること。
(あ――これ、間違いない! 勇者、マシュー・クロムハートじゃねえかっ!!)
◇◇◇
これは、とあるファンタジー漫画で、主人公を追放した後、落ちぶれて闇落ちして挙げ句の果てには悲惨な最期を遂げる勇者に転生してしまった男が、運命を変えようと、安全かつ真剣に――いや、決して安全とは言えない状況下で真剣に苦しみもがく物語である。
これから暫しの間、彼……鈴木与一、現在は勇者マシュー・クロムハートを語り手とするストーリーにお付き合い願いたい。
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