新たな婚姻

 無理やり屋敷に連れて来たのに、父は姿を見せなかった。そのまま夕食を与えられて部屋に押し込まれる。ここで暮らしていた時に使っていた部屋だ。


 勉強をするための部屋、服飾品の部屋、寝室、来訪者と話をするための部屋がつながっていて、食事と入浴以外で、わたしがここから出ることは無かった。先生が図書館に連れ出してくれなかったら、この数部屋がわたしの世界の全てだった。広くて贅沢だけど、孤独な世界。


 わたしは来訪者のための長椅子に、ひざを抱えて丸くなる。


(婚姻が成立していない)


 神官がエルダー様との婚姻の成立を口にしていた。婚姻は神への許しとは別に法律上の手続きも必要となる。神への許しは省略出来るものだけど、法的な方はこの国では絶対だ。使者の言葉から察するに、法的に問題があったとしか思えない。


 しばらく前からエルダー様が不機嫌そうなご様子だったのは、この事をご存じだったからなのだろうか。わたしが父の元に戻らなくて済むよう、婚姻を正式に成立させようと、骨を折って下さっていたのではないかと思う。


 いずれにせよ、父から正確な話を聞きたい。


(お父様に話す気があれば)


 過去を振り返るに、理由は何も言わずに指示だけ与えられるような気もする。


(いざとなったら、今度こそ<香力>を使って街に逃げよう)


 もしかすると王都では見つかってしまうかもしれない。


 わたしは外国語が出来るし、どこか外国に行っても暮らせるかもしれない。逃げ出す時には、宝飾品の1個や2個くらい持ち出して外国までの旅費にしよう。


 することも無いので、服飾品の部屋で何個か目星をつけておく。見栄え良く身を飾るものは惜しまず与えてもらっている。このことだけは父に感謝しておくことにする。


 数日経っても父が現れる気配がない。使用人たちが、わたしを観察するように見る視線は昔と変わらないはずなのに、バーシュ家のあたたかいやり取りに慣れてしまった今は、ひどく煩わしい。


 もう数日、生活に必要な事しか言葉にしていない。いります、いりません、お願いします。⋯⋯他に何か言っただろうか。思い出せない。


 そのうち、異変に気が付いた。<香力>が使えない。


 ずっと部屋に閉じ込もっているせいか、窓は開いているのに息苦しく感じた。風を起こして空気を流そうとして、全く<香力>が出ないことに気が付いた。焦って花瓶の水などでも試しても、全く力を出せない。一時的な事かと思ったけれど、一晩寝ても回復しなかった。


 このままでは、いざという時に脱出も出来ない。気持ちは焦るけれど、どうすれば回復するのか分からなくて心がくじけそうになる。


 そんな中、父がやっと部屋にやってきた。わたしと同じ、はちみつ色の髪に琥珀色の瞳。整っているけれど、冷たい、冷たい顔。わたしを物のように見る視線。


「戻れと言ったのに、なぜ、すぐに戻らなかった? 手間をかけさせるな」


 質問ではない、叱責だ。わたしは無言で頭をさげて次の言葉を待つ。


「新しい婚姻が決まった。来週にはここを発つことになる。使用人に準備をさせておく」


 それだけ言って立ち去ろうとする。


「あの!」


 わたしが声を上げたので驚いたように振り返ってこちらを見た。


「新しい、とはどういうことでしょうか。わたしは、バーシュ様との婚姻を解消していないはずですが」


 神殿で儀式を行っていないので、父が勝手に解消したということはさすがにないだろう。


「バーシュは何も伝えていないのか」


 父が忌々し気に言い捨てる。


「法的な手続きに不備があり、そもそもお前とバーシュの婚姻は成立していない。だから、解消する必要はない」

「――新しい嫁ぎ先とは?」

「スプルース伯爵だ。伯爵の役に立てるよう励め」


 スプルース伯爵。アベル様の訓練場で会ったあの伯爵だ。あの時、わたしの<香力>に興味を持っていた。父と同じ目をしていると思ったのは勘違いではなかった。


「嫌です!」


 思わず、口にする。


 わたしが父の言葉に反抗するのは、記憶にある限りでは初めてのことだ。父も心底驚いたような顔をしている。


「決してスプルース領には行きませんし、伯爵の役に立つこともしません。お役に立てない娘ですから、どうぞ、このまま放逐してくださいませ」


 このまま着の身着のままで放り出された方がましだ。<香力>が使えないのだから、苦労するだろうし危ない目にも遭うかもしれない。それでも物として人手に渡るのは嫌だ。


「<香力>が使えなくなったから役にたたない、と言っているのか? それなら伯爵も承知済みだ。問題ない」


 わたしが<香力>を使えない事を父が知っている?どういう事だろう。


「それでも嫌です。絶対に嫌です」

「嫌だと言ってお前に何が出来る。お前がどう思おうと知った事ではないが、役にたたないのは困るな」


 父が少し考えるそぶりを見せた。


「――近いうちにスプルース伯爵を招待する。自分の新しい主人が誰なのか、きっちり理解することだ」


 そう吐き捨てるように言うと足早に立ち去った。


 それ以降は、数人の使用人がわたしの一挙手一投足を監視するようになった。寝ている間もずっと。初めて反抗したわたしに、父は何かしら警戒しているのだろう。


 せめて<香力>が使えたら。


 どういう理由で使えなくなったか分からないけれど、心が弱っていることが原因かもしれない。<香力>が復活したら脱出して街で生活をする、という明るい事を考えるくらいしか出来なかった。


 それほど日が経っていないのに、もうバーシュ邸での生活がずいぶん昔の事に感じる。エルダー様に会いたい。もし今ぎゅっと出来たらどんなに心強いことだろう。


 わたしはまた、長椅子の上で丸くなる。

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