バーノルド先生

「先生、先生、先生!」

 わたしは先生が部屋に入ってくるなり、子供のように泣きじゃくってしまった。


 ふわふわの金色の髪。眼鏡の奥からのぞく、優しい水色の瞳。

スモーキーな紅茶の香り。今日は少し、枯れ草や土ぼこりの匂いがする。


 (先生だ。先生に会いたかった)


 先生は『大事な時に留守にしてごめんね』と、幼い頃のように頭をそっと撫でてくれた。バーノルド先生には、わたしが5歳の時から家庭教師として面倒を見てもらっていて、わたしにとっては父とも兄とも言える人だ。


 本業は学者なのだけど、駆け出しでお金がなかった先生は一番上の兄の紹介でわたしの家庭教師をしてくれていた。兄とは王立学校で仲良しだったそうだ。


 当時まだ若かった先生が、子供のわたしの家庭教師を務めるのは大変だったと思う。勉強だけでなく言動の指導までしなければならない。それでも先生は優しく辛抱強くわたしを導いてくれた。家に居場所の無いわたしのために、仕事の範囲を超えて気にかけて面倒をみてくれた。


 わたしの結婚で家庭教師としての役割は終えたけれど、新進の学者として名を揚げていた先生は学者として王宮に出入りする機会が多く、王宮に来るたびにわたしのところに顔を見せてくれていた。いまでもわたしの心の支えだ。


 陛下との婚姻解消と新しい結婚が決まった時に、先生がいなくて本当に心細かった。わたしには先生以外には頼ったり相談する人がいない。


「先生、旅の香りがしますね」


 外国にいた先生は、結婚の知らせを聞いて急いで戻って来ようとしてくれたのだが、船の都合でやっと今日戻れたのだ。


「ごめん、臭かったかな。港について着いてそのまま来たから」

「いえ、臭くはないです。⋯⋯外を感じる良い香りです。先生が帰って来たんだな、って感じます」


 わたしが落ち着いたのを見て、先生がゆっくりと、わたしから話を聞き出す。


「君のお兄さんも決まってから知ったようだったから、急に進んだ話だったようだよ」


 先生が研究で外国に出かけたのが2か月前。父がわたしを手元に戻す意向を感じてすぐに、陛下が手配してくださったのかもしれない。


「妹さんと陛下の縁談は進んでいるようだよ。これで、御父上の興味が君から離れてくれるといいんだけど」


 先生が深いため息をつく。


「それで、ピオニィはバーシュ殿をどう思った?」

「⋯⋯優しい人でした」


 わたしは先生にエルダー様と会ったこと、話した内容をかいつまんで説明した。最初は神殿から逃げ出そうとしたことを黙っていたけど、話のつじつまが合わなくなっててしまい、最終的には全て正直に白状した。先生の眉が吊り上がっている。絶対に怒っている。


「そう⋯⋯」


 先生は何か考えこんでいる。スモーキーな紅茶の香り。先生は<香力>があまり強くないので、近づいた時だけこの香りがふんわり届く。わたしは小さな頃から、この香りの中にいると安心できる。先生がずっと一緒にいてくれたらいいのに。


 先生が何かを言おうとしたとき、侍女が来客の知らせを持ってきた。


 エルダー様だ。結婚の儀式以来、毎日、仕事のついでに様子を見に来てくれるようになった。来週、わたしはエルダー様のお屋敷に移ることになっている。


「ちょうど良かった。私もバーシュ殿に会ってみたかったんだ」


 先生が言うので、侍女に伝えてエルダー様をこのまま部屋に通してもらうことにした。


 やがて入って来たエルダー様は、バーノルド先生を見て少し警戒したように目を細めた。


「エルダー様、こちらバーノルド先生です。私が幼い頃からお世話になっている家庭教師の先生です」


 先生はゆっくり立ち上がり、エルダー様に握手の手を差し出した。


「はじめまして。いま、ピオニィから失敗した脱出計画について聞いていたところです。ずいぶんと危ないことをしていたようで。止めて頂いてありがとうございます」

「あなたにお礼を言われることではありません。⋯⋯エルダー・バーシュです」


 エルダー様がバーノルド先生の手を握り、二人は握手した。


「もうピオニィに『エルダー様』と呼ばせてるんですね。私も、そうして構わないですか?」

「どうぞ、ご自由に」


 エルダー様がわたしの顔を見て眉をひそめた。


「ピオニィ、泣いていたの?」


 ちゃんと涙は拭いたはずなのに。跡が残ってしまっていたのだろうか。慌ててハンカチを取り出して目元をぬぐうわたしを見て、先生が声を出して笑った。


「目が赤いからだよ。まぶたも腫れてるし、可愛い顔が台無しになってる」


(どうしよう、そんなに酷い顔になってるだろうか)


「あれだけ泣けば、仕方ないよ。私のちっちゃな甘えっ子さんが帰ってきたみたいだったよ」


 先生がまた、わたしの頭をなでる。さすがに人がいるところで子供扱いされるのは恥ずかしい。大人として見苦しいのだろう、エルダー様も不愉快そうな顔をしている。


「先生、もうわたし大人ですから」


 先生から少し離れた。先生は少し笑ってから、エルダー様に向かって言った。


「ピオニィは国王に嫁ぐ時にも嫌がって、私と結婚する、と言って泣くからなだめるのに苦労したよ。今回は、あなたが上手くなだめたみたいだね」


 先生の言い方にトゲを感じる。先生はエルダー様を信用していないのだろうか。エルダー様を信用して良いのか、少し不安になる。


「ピオニィはあなたのことを信用したみたいだけど、私は学者だから、自分で確認しないと気が済まなくて。あなたが信頼に足るかどうかは、私が自分の目で確認させていただこうと思う」


 エルダー様は嫌そうな顔をした。


「どうぞ、ご自由に」


 先生はにっこり笑った。


「だんな様のお許しも得たし、私はこれから、ちょくちょく君の様子を見にバーシュ邸にお邪魔させて頂くことにしよう」


(今のはお許しなんだろうか)


 エルダー様を見たが、嫌そうな顔はしているものの特に止める様子は無かった。


(これからも先生と会える?)


「それでは私はこの辺で失礼します。ピオニィ、ここにいる間にまた来るね」


 先生が立ち去ろうとしたとき、エルダー様が口を開いた。


「センセイ、僕のうちには祖父が残した蔵書が多くあります。センセイが興味をお持ちになりそうなものもあると思うので、いつでもお越しください」


 先生は意外そうな顔をしてエルダー様を見た後に破顔した。


「先のバーシュ公爵の蔵書については、耳にしたことがあります。ぜひとも拝見したいものです」


 先生はエルダー様ともう一度握手をして去っていった。

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