婚姻披露の夜会

 エルダー・バーシュはわたしの手を引いて、神殿まで連れていき神官に引き渡した。


「外の空気を吸いたい、と言うから連れ出してしまった。探させてしまったようで、すまないね」


 逃げたと告げ口しないでくれるようだ。


 いつの間に、と神官たちは驚いていたけれど儀式の時間が迫っていたのでそのまま大慌てで儀式の準備に取り掛かった。わたしは控室に戻され、今度は純白のドレスを着せられる。


 そして始まった儀式の場にいたのは、先ほどエルダー・バーシュと名乗ったあの男性だった。


 本当にわたしの結婚相手だった。


「伴侶として、これからの人生を歩んでいくことを誓います」


 エルダー・バーシュとわたしは神に誓い深く頭をたれる。神官が<香力>を私たちの頭上に注ぎ、聞こえぬほどの小声で、もぐもぐと何か呟いている。辺りに雨のような涼やかな水の香りがたちこめた。


 <香力>と共に放出される強い香りは、人それぞれに違う。食べ物や生活習慣で変えられない生れ持った香りだ。わたしの場合、甘い花の香りが放出される。物語には、腐肉の香りを放つ気の毒な男の逸話もあるので、これについては心から神に感謝している。


 この水の香りがこの神官の香りなのだろう。


 神官の顔は顔中を覆っている真っ白のひげでよく分からないけれど、この香りには覚えがある。つい先ほどの陛下との婚姻解消の儀式も、もっと前に陛下と婚姻を結んだ時も、この神官に祈ってもらったのだと思う。この神官も複雑な気持ちなのかもしれない。


「神がお二人と夫婦とお認めになりました」


 こうして、わたしの2回目の婚姻が神のもとに成立した。



 儀式が終わるや否や、今度は宮殿に戻されて次の準備に入る。この後、婚姻披露の夜会が開かれるので、そのための準備だ。


 離婚をした陛下がわたしの新しい結婚を祝う夜会開く、と考えると違和感がある。しかし実態は、励めば褒章を与えるという顕示と、臣下が戦利品を誇示する場だ。結局は婚姻披露という名目の政治の場なのだ。


 父からは新しく王妃に推している妹のお披露目の場にするから、目立たないよう隅に控えているようにと言われている。


 そういえば、予定では脱出成功しているはずだったので、細かい事を確認していなかった。慌てて、父の従者から渡されていた紙に目を通して、段取りや挨拶するべき人などを頭に叩き込む。父の意図通りに粛々と動くことが、一番面倒がないと理解している。


 風呂に入れられ、磨き立てられ、飾り立てられる。


 淡い水色のドレスは光沢のある美しい布がたっぷりと使われ、動きに合わせて流れるような光を放つ。はちみつ色の巻き毛は、頭の上に結い上げられ、花を象った宝石で飾られている。ドレスと同色の大粒の宝石が胸元や耳元で光をたたえている。


父は、こういう自らの権勢を示せるような所にはお金を惜しまない。豪華な装いは美しいけれど、わたしにはどれも全て重く窮屈に感じられ、全く心が浮き立たない。こういう首筋や胸元まで肌が出てしまうようなドレスも好きになれない。


 夜会が始まる頃には、もうくたびれてしまっていた。お腹も減ったけれど、忙しく駆け回る使用人に声をかけるのは気がひける。



 夜会が始まり、父に引っ張り回されて挨拶をした。陛下にも最後の挨拶を行う。その間ずっと、わたしが一言も発する事はない。

ただ、タイミングを見て微笑んだりお辞儀を繰り返すだけだ。


 陛下への挨拶の後、最後に1曲ダンスを踊り、エルダー・バーシュに引き渡される。続いてエルダー・バーシュと1曲踊った後に、また挨拶に引き回される、という段取りになっている。


 まだまだ、今日は長い。


 曲が始まり、陛下に手を取られて会場の中ほどに進んだ。陛下とダンスを踊るのは2年前、陛下との婚姻披露のとき以来だ。

ステップを踏み間違えないように気を付けながら陛下のリードに身を任せる。


 陛下の束ねられた美しい金髪が、動きとともにふわり、ふわりと目の端に映る。大地のような重厚な香りに包まれる。


 見上げると陛下の透き通った青い瞳が優しい光をたたえていた。


 最初に陛下を見た時、物語の王子様がそのまま抜け出して来たような素敵な方だと思った。先王様が早めに陛下に後を譲られて退位されたため、まだ40歳を迎えるかどうかといった若さだ。優しく穏やかなお人柄で、声を荒げる姿など見たことがない。父のように、いつも厳めしい顔をして気に沿わないと怒る方だったら、と嫁ぐ前は不安だったことを思い出す。


 やがて曲が終わった。身を引いて礼をしようとしたが、陛下が手を離してくれない。


「あの⋯⋯」


 戸惑って陛下の顔を見上げると、陛下は軽く微笑んでから音楽隊に指示を出した。


「もう1曲、今度は少し賑やかな曲を」


 段取りとは違う行動に周りがざわめく。


 曲が始まった。先ほどの静かな曲と違い華やかに音が鳴り響く。踊り始めたところで陛下が小声で話し始めた。


「すまない。なかなか話せないものだから」


 声は音楽でかき消されて、周りには聞こえないだろう。


「私に力が無くて、最後まで守ってあげられなかった」


 驚いて陛下の顔を見上げるが、何ごとも無いような顔をしている。


「御父上は妹君をここに送るため、君を手元に戻そうとした」


 陛下がわたしををターンさせる。ドレスの裾がふわりと広がった。ダンスの合間に、不自然に見えないような様子で、少しずつ陛下が話す。


「君を御父上の元に戻さないことを優先した。君の気持ちも考えず、他の人に譲り渡すような心無い振る舞いをして、申し訳なく思う」


 陛下はどこまで、何をご存知なのだろう。少なくとも、わたしが父の元に戻ることを望まないという事はご理解下さっている。


 もうすぐ曲が終わる。


「エルダー・バーシュは大丈夫だから、安心しなさい」


 父ではなく、陛下が選んでくださった相手だったのか。


「深いお心遣い、大変ありがたく存じます」


 何と言えば良いか分からず、とにかくお礼だけは、と口に出した。


 曲が終わった。陛下とわたしはお互いに向き合う。今度は手を離してくれたので、丁寧に礼をした。すると陛下はもう一度わたしの手をとり自分の方に引き寄せた。


 そして、わたしのほほに軽く口づけをした。


 動揺してよろけた所を、陛下が支えて下さる。陛下から頂く初めての口づけだった。驚いて見上げた陛下の顔には、いたずらっぽい微笑みが浮かんでいる。


 固唾を飲んでダンスを見守っていた周囲が、またざわめく。

そのまま陛下は近くで控えていたエルダー・バーシュにわたしの手を預けた。そして、エルダー・バーシュに言う。


「大切にしてたんだから。⋯⋯後は任せたよ」


エルダー・バーシュは「承知いたしました」と畏まって答える。


 思えばこの2年、煩わしい事は何もなく平和に過ごすことができた。ご寵愛が無いことはお妃たちの間では周知の事実だったので、恐ろしい争いにも巻き込まれなかった。野心の無いわたしへに対する、陛下なりの配慮だったのだろう。


(陛下、ありがとうございました)


 わたしはもう一度、丁寧に礼をした。


 続いて曲が始まり、今度はエルダー・バーシュと踊る。陛下よりも軽やかでリードが力強い。手も少し強く握られている。爽やかな風を感じさせる短めの髪も軽やかに動く。草原の香りが立ち込める。


見上げると視線を感じたのか、紺色の瞳がやさしくわたしを見つめる。『エルダー・バーシュは大丈夫だから、安心しなさい』陛下の言葉が頭に浮かぶ。


 曲が終わり向き合って礼をした。続く曲から、周りの人たちもダンスを始める。


 父が妹を陛下のもとに連れていくのが見えた。母が違う妹のことは今日初めて見た。父には似ていないし、彼女の母のことも知らない。とても美しいけれど、感情が読み取れない女の子。彼女がこの縁談をどう思っているのか分からない。わたしよりも、もっと豪華な装いに包まれていることからも、父の意気込みが伝わってくる。彼女も陛下のもとで幸せに暮らせるといいな、と思う。


 エルダー・バーシュのエスコートを受け、会場内を移動しながら挨拶をする。先ほどと同じく、わたしは微笑むかお辞儀をするだけだ。


 途中、移動しているときにお腹が鳴ってしまった。無作法なことをしてしまって焦るが、隣を歩くエルダー・バーシュが気づいた様子はなかった。周りが騒がしくて助かった。


 次第に、父の言いつけの『目立たないよう隅に控えているように』が気になり始めた。どうしようか少し迷ってからエルダー・バーシュに伝えた。


「気分が優れませんので、少しだけあちらで休んでもよろしいでしょうか」


 バルコニーの方に視線を向けて言うと、エルダー・バーシュは快く承知してくれた。エルダー・バーシュは心配して付き添ってくれようとしたが、すぐに人に話しかけられ応対せざるを得なくなった。その間に、わたしは一人でバルコニーに向かう。


 バルコニーの手前で、同じ年ごろの令嬢たちが数人集まっているのが見えた。豪華な色とりどりのドレスが集まっている姿はとても華やかだったが、取り巻く空気は重い。わたしに好意的とは言えない視線を向けて、ひそひそと話している。


 もめ事は避けようと、違う方向に向かおうとしたが令嬢たちは見逃してくれず、さっと寄ってきて取り囲まれてしまった。


「そんなに急いでお行きにならないで」


 一人がわたしの行く手に立ちふさがる。めんどくさい。社交の場にあまり出ないため、こういう時のかわし方にも慣れていない。仕方なく足を止めて丁寧に礼をする。このご令嬢たちが誰なのか分からない以上、下手なふるまいはできない。


「幻のお妃と言われてましたけど、実在しましたのね」

「<香力>が化け物のように強いと聞きましたけど、普通の人間のように見えますわ」


 わたしを頭の先からつま先まで眺めて好き勝手言う。わたしが曖昧にほほ笑んだまま、何も言わないことにいら立つのか攻撃は止まらない。


 香水の香りが強く頭が痛くなる。お腹もすいたし、疲れたし、早くバルコニーに出て外の空気を吸いたい。


「姉妹そろって、容姿だけが取り柄といったところかしら。⋯⋯御覧になって、陛下に取り入る姿のあさましいこと」


 扇子で父と一緒の妹を指し、あざけるように言う。たくさんの宝石を身に着けているので、どこか有力な貴族のご令嬢なのだろう。

彼女も陛下に嫁ぎたかったのだろうか。


「顔だけですもの。すぐにこの方のように飽きられてお払い箱になるのではなくて?」


 あの美しい妹と同列に扱われたことは、誉め言葉と受け取っておこう。


 早く終わらせてほしいのに、ご令嬢たちが移動してくれる様子はない。どういうタイミングでこの場を抜ければいいのか分からない。


 ぼんやりとご令嬢たちを眺める。同じ国の言葉を話しているけど、この人たちの事は違う国の人のように理解できない。わたしに、女の子の友達がいないから理解できないのかもしれない。


 正確には『貴族の』友達だ。幼いころに平民の友達はいた。わたしは、きっと、平民の方が向いているのだ。


 途中からはもう、話している声は耳に入らなくなった。


 もし、いまここで思い切り<香力>を放出して、全部吹き飛ばしてみたら、爽快な気分を味わえるかもしれない。それとも、灯りの火を思い切り大きくして驚かせてみようか。飲み物の水分を全てまき散らしてみるのも面白いかもしれない。


 そんな想像をしながら、ご令嬢たちのパクパクと動く口元を見て、それが止まるのを待つ。


「バーシュ様も、こんな娘を押し付けられて、お気の毒」

「あら、息子は素敵なお嬢さんと結婚出来て、とても喜んでいるのだけど」


 突然、わたしの後ろから声が割り込んだ。


 振り返ると濃い色の髪を結いあげた背の高いご婦人が、冷たい目でご令嬢たちを眺めていた。


「バーシュ婦人!」


 わたしはあわててドレスの裾をつまみ、ご婦人に礼をする。夜会の前にご挨拶させて頂いたエルダー・バーシュの母だ。たちまち、ご令嬢たちは口ごもって何かを言いながら散り散りに去っていった。


「意気地のない子たちね。⋯⋯ピオニィさん、大丈夫?」


 エルダー・バーシュに似た優しいほほ笑みで労わってくれた。


 エルダー・バーシュの母は、わたしの手を引いてバルコニーまで連れ出してくれた。


「うちの息子が、しっかりしていないから、ごめんなさいね」

「いえ、とんでもございません。助けて頂いて、ありがとうございました。ああいう時、どうして良いのか分からなくて」

「聞こえないふりをして、通り過ぎてしまえばいいのよ」


 熱気から解放されて、やっと気分が楽になった。思い切り息を吸い込む。


 わたしの様子を見て、エルダー・バーシュの母は少し困った顔でほほ笑んだ。


「お伝えしておきたいことがあるのだけど、回りくどく話す事は苦手だから、はっきり言うわね」


 わたしは緊張で身を固くする。何を言われるのだろう。


「多分ご存知だと思うけれど、あなたとエルダーの縁談をバーシュ家は一度お断りしているの」

「はい、存じております」


 一度は断った縁談を陛下から押し付けられて、どんなに迷惑なことだろう。わたしが望んだことではないとはいえ、身の置き所がない気持ちになる。


「それはピオニィさんだからではない、という事をお伝えしたかったの」


 エルダー・バーシュの母は申し訳なさそうな表情だ。


「エルダーは『妻は一人だけ』と宣言していたの、ずっと昔から。あれでも伯爵家の跡取りだから縁談は少なくなかったんだけど、誰が持ってきた話でも聞くことすらしなかった。だから、どの縁談も全てお断りしていたのよ」


 エルダー・バーシュは、バーシュ伯爵家の跡取り息子だ。現在は父伯爵が領地に住んで運営し、エルダー・バーシュは宮廷の文官として勤めている。国境のバーシュ領は豊かな土地だ。あの強欲なわたしの父が納得したくらいだ。どの貴族も娘の結婚相手としては有望だと見ているのだろう。


「そんな調子だったから、あなたとの縁談を断ったこと気がついてなかったんでしょうね。さっき夜会の前に、すごい剣幕であなたとの縁談を断ったことがあるかって聞いてきたわ」


 昼間に伝えたことを、気にされているのかもしれない。本人だとは思わず『嫌い』などひどい事を言ってしまったのだ、申し訳ないことをしてしまった。


 エルダー・バーシュの母は、わたしの手をそっと取り両手で包み込んだ。


「最初にこの話を聞いた時は、あの子の事を『かわいそうに』と思ったの。ごめんなさいね。――でも、今日会ったエルダーは、とても嬉しそうだった」


 嬉しそう?そんなことは⋯⋯ないと思う。


「経緯はどうであれ、あなたと結婚できたことを、本当に嬉しく思っているみたい。だから、心無い事を言う人のことには耳を貸さないで。出来れば、あなたにもエルダーの事を好きになってもらえたら嬉しいわ」

「母さん!何やっているの?!」


 エルダー・バーシュが慌ててバルコニーに出てきた。わたしの様子を見に来てくれたようだったけど、自分の母親がわたしの手を握っているのを見て、あわてて引きはがす。


「あなたの大事な奥さまが、ご令嬢たちに虐められていたから助けたのよ」

「え? 何だよそれ! 誰が?」


 エルダー・バーシュが詰め寄るのを、母は笑ってかわす。


「さ、私は夫のところに戻るわ。⋯⋯ピオニィさん、領地に戻る前にもう一度、ゆっくりお話しさせてね」


 エルダー・バーシュの母は颯爽と人込みをすり抜けて去って行く。


「ごめんね、母さんが何か言った?」

「困っていたところを助けて頂きました」

「虐められたってどういうこと? 大丈夫?」

「平気です、申し訳ありません」


 エルダー・バーシュは、呆れたように言う。


「なぜ君が謝るの。嫌な思いをしたのは、君でしょう」


 しばらく不満そうに会場を見回していたが、大きなため息をつくと、わたしの前に立った。


「ね、手を出してみて」


 エルダー・バーシュはにっこり笑うと、わたしが出した手のひらに薄い紙で包んだ何かを乗せた。


「これは?」

「プレゼント。開けてみて」


 甘く香ばしい香りがする。包みを開くとそこには


(――焼き菓子!)


 美しい焦げ目がついた、小さな菓子が何個か包まれていた。


「お腹空いてるでしょう」


 先ほどのお腹の音を聞かれていたようだ。淑女として恥ずべき事だ。恥ずかしくて顔が上げられない。


「ほら、食べてみて。あ、もしかして、嫌いだった?」


 エルダー・バーシュが心配そうに聞いてきた。


「いえ、大好きです。⋯⋯頂きます」


 ひとつ口に入れる。


(美味しい! 美味しい! 美味しい――!)


 甘さが口いっぱいに広がり、やがて体中に広がる。


(しあわせ――!)


 飲み込んで余韻を楽しむ。


 エルダー・バーシュは満足そうに、わたしがお菓子を堪能するところを眺めている。


「あははっ!本当にお腹が空いていたんだね、少し待ってて。あ、それは食べててね」


 そう言うとバルコニーから出て、どこかに行った。


 一つ食べると止まらなくなる。わたしは遠慮なく、もう一つ口に入れる。


(本当に美味しい!)


 今までに、こんなに嬉しい贈り物を貰ったことは無いかもしれない。


 しばらくして、戻って来たエルダー・バーシュはティーカップを2セット持っている。それをバルコニーの手すりに置き、ポケットからまた紙包みを取り出した。


「あっちに、子供たちがいるでしょう」


 夜会には混ざりにくい、けれども幼児とは言えない大き目の子供たちは、広間の片隅でおしゃべりをしている。


「あそこには、お菓子が置いてあるんだ。そこから少し頂いてきた」


 いたずらっ子のような笑顔だ。


 夜会では大人向けにお酒は出るが、食べ物は出ない。このお菓子は子供用に準備してあったものらしい。


「お茶も一緒に頂いてきたよ。お酒が良ければ、もらってくるけど」

「いえ、お茶の方がいいです」


 お酒はあまり得意ではない。エルダー・バーシュは、手すりの上の紅茶の間にお菓子の紙包みを開いた。わたしが持っているものとは、また少し違う焼き菓子が現れた。表面に砂糖のつぶがキラキラと輝いている。


「終わるまで、ここでのんびりしてよう」

「夜会というよりは、お茶会ですね」


 ふたりで顔を見合わせて笑う。

 お菓子を食べてお茶を飲んでいると、今日一日の緊張が溶けてなくなっていくようだ。


「バーシュ様は、戻らなくてよろしいのですか?」

「エルダー」


 エルダー・バーシュは力強く言う。


「僕のことは、エルダーと呼んで。僕たちは結婚しているんだから、バーシュ様はおかしいよ。僕も、君の事をピオニィって呼ぶね」

「はい⋯⋯」

「うん、呼んでみて」

「え?」

「ほら練習だよ。僕の名前を呼んでみて」

「エルダー、様」


 少し首をかしげて眉を寄せられた。


「様⋯⋯はいらないけど、まあいいか」


 エルダー様はにっこり笑う。


「ごめん、何か言いかけたね」

「エルダー様はあちらに、戻らなくてよろしいのですか?」


 広間の方に視線を向けて尋ねる。


「君は戻りたい?」

「わたしは、父に端で大人しくするよう言いつけられておりますから」

「だったら、僕もここにいる」


 エルダー様は両手を上げて伸びをした。


「君は社交が嫌いだと聞いたけど、僕も嫌いなんだよ。あの中に入ると、品物のように値踏みされているような気がして気持ちが重くなる。本当に必要な範囲でしか付き合いたくない」


 陛下の言葉が、また頭に浮かぶ。


『エルダー・バーシュは大丈夫だから、安心しなさい』


「さすがに帰るわけにはいかないから、一緒にここに隠れていよう」


 エルダー様は優しく笑ってお茶を口にした。


 また、嫌いと言ってしまったことを思い出した。


「あの」


 勇気を出して言葉にする。


「嫌いって言って、申し訳ありませんでした。⋯⋯もう、嫌いではないです」


 エルダー様は目を見開いて少し驚いたような顔をした後に破顔した。焼き菓子を1個つまんで、月にかざすように持ち上げた。


「お菓子に助けられたかな! ⋯⋯うちの屋敷にはね、焼き菓子を作るのが上手な使用人がいるよ。きっと気に入ると思う」


 草原の爽やかな香りがした。少しだけ、バーシュ家に行くことが不安ではなくなった。

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