新しい生活
いよいよ今日、エルダー様のお屋敷に移る。
王宮を出発したのはお昼を少し過ぎたところだった。陛下や世話になった人にお暇のご挨拶をして馬車に乗り込んだ。王宮の外に出るのは2年ぶりだから緊張している。
門を出るところで監視係の衛兵に馬車の中まで確認された。
「ほらね? 簡単には出られないでしょ」
エルダー様がからかうように言う。脱出の時のことを言っているのだ。
「そうですね、本当に難しそう。王宮に来た時のこと全然覚えていませんでした」
2年前。どんな生活になるか想像できなくて不安しかなかった。でも、外に出られなかったとはいえ、父におびえる事なく自由に過ごすことが出来たここでの生活は平和だった。嫌な思いをしたことは、ほとんどない。話し相手はいなかったけれど、先生がたまに来てくれたから寂しくなかった。
エルダー様には少し慣れてきたけれど知らない屋敷で暮らすのは不安だ。わたしの緊張が伝わったのか、エルダー様が屋敷の話をしてくれる。
エルダー様のお屋敷は、王都の中心地にほど近い賑やかな場所にあるという。
「手狭だけど庭が美しいんだ」
庭師のこだわりが強く、植える花について口を出したり、花壇を痛めるような事をすると大変怒るのだそうだ。
父のところでは使用人が主人に意見を言うなんて決して許されない。わたしが育った家とは大分違いそうだ。
やがて馬車が止まり、扉が開けられる。
「着いたよ。さあ、――どうぞ」
エルダー様がわたしの手を引いて馬車から降ろしてくれる。
目に入ったのは咲き乱れる花。整然と作られた美しさとは違い、草花の自由な生命力を感じるような庭。
入り口をくぐり玄関ホールに入ると、色とりどりの光が降りそそぐ。明かり取りの窓に美しい色ガラスがはめ込まれていた。
あちこちに花が飾られている。
王宮や父の屋敷の贅を凝らした美しさとは違う、温かみのある美しいお屋敷だ。
「今日から、ここがあなたの家だ」
エルダー様が整列する使用人のうち中央の2人に目配せをする。2人はすっとわたしの前に進み出てきてお辞儀をした。
「執事のバードとメイド頭のエマです。何かがあったら、遠慮なく言いつけて」
エルダー様が紹介すると、待ってましたとばかりに初老の男性の方がニコニコと自己紹介を始めた。
「バードと申します。初めまして奥さま。私は坊ちゃんが小さいい頃から、ずうっと面倒見ております。坊ちゃんの事なら悪戯の数から嫌いな食べ物まで、何でも存じております。嫌なことをされたら、私が叱って差し上げますので、遠慮なくおっしゃってください」
「バード!」
エルダー様が困ったような顔をする。
「奥さま、私はメイド頭のエマです」
中年というには少し若い、恰幅の良い女性が、バードを押しのけるようにして話し出す。
「うんもう、奥さま! お会いできるのをずいぶん前から楽しみにしておりました! 坊ちゃまが、ずうっと結婚なさらないもので心配しておりましたけど、こんな可愛いお嬢さんに来て頂けるなんて。大奥様が、あれほど興奮なさっていたのも分かりますわ」
大奥様、エルダー様のお母様のことだ。夜会でおっしゃっていた通り、領地にお戻りになる前に王宮のわたしの部屋に来てくれて、他愛もない話をしたり、領地の話を聞かせてくれた。そして、わたしの服装をほめちぎり、もしわたしが領地に来ることがあったら服を選ばせて欲しい、と言われた。
どうやら、娘に好みの服を着せるのが夢だったのに、エルダー様の妹たちは服装には全く興味を示さず、選んだ服を着てくれなくて残念なのだそうだ。
母を早くに亡くしたので『お母さん』は、こういうものなのかと新鮮に感じた。
エマは話しながら私の手を取り、肩や腕を撫で、しまいにはぎゅうっと抱きしめてきた。お義母様も使用人もみな、ピオニィが育った家とは何もかもが違う。戸惑ったけれど全然嫌じゃない。緊張が少しほぐれて温かい気持ちになった。
「ちょっとエマ! 怖がらせるから! やめなさい!」
エルダー様が慌ててエマをわたしから引きはがす。
父の家では家族と使用人の間に厳しく線引きがされていて、使用人と私的な会話をする事は決して許されなかった。ましてや抱きつくなんて触れ合いはもっての他だ。あちこちにある屋敷の間で使用人が定期的に入れ替わるため、同じ顔を長く見ることもない。不正の温床になる、と言って使用人同士が必要以上に仲良くなることも禁じていた。
「⋯⋯ごめんね。みんな、君が来てくれるのを楽しみにしていたんだ。無作法を許して欲しい」
エルダー様が頭を下げる。わたしは慌ててしまう。
「いえ、とんでもございません。お心遣い、心から感謝申し上げます。
――バード、エマ、みなさま。ピオニィです。どうぞよろしくお願いいたします」
使用人たちにお辞儀をすると、またエマに抱きしめられてしまった。エマに抱きしめられると、焼き菓子のような甘くて心が浮き立つような香りがする。
初めて来た場所なのに、もう緊張感はすっかりなくなっていた。
◇
エルダー様のお屋敷に引っ越してからしばらく経ち、季節が夏に差し掛かり日差しも強くなってきた。
来客がほとんどないこのお屋敷では、今のところ『奥さま』としての役割はほとんどなく、エルダー様からは王宮時代のように自由に過ごすよう言われている。
『自由に』と言われてもどうしたものかと困っていたら、エマがお菓子の焼き方を教えてくれるようになった。厨房に入るのは初めてで、本で読んだ事はあるものの見る物全てが珍しく、いつまで居ても飽きなかった。
エマのだんな様は厨房を取り仕切る料理人だ。二人が楽しそうに話しながらお菓子を作る姿を見るのが、とても好きだ。そこに入れてもらって一緒におしゃべりするのも、とても好きだ。
<香力>を使って、庭師のブッテさんのお手伝いをしてみることもある。ブッテさんは私の<香力>の花の香りをとても好きだと言ってくれて力を使うと喜ぶ。風を使って肥料や水を広く撒いたり、土を動かして大き目の穴を掘ったり。王宮でも庭師の仕事を眺める事はあったけれど、自分でやってみると意外な発見があって面白い。
ブッテさんは頑固者だと聞いていたけれど、作業がはかどるとニコニコ笑う姿は気の良いお爺さんで親しみやすかった。今年は間に合わないけれど、来年の今ごろには、わたしと同じ香りの花壇を作ってくれるそうだ。
ここでの暮らしは初めてのことばかりで、楽しくて居心地が良い。
――だからこそ少し怖くなる。好きになりすぎると、手放す時が辛くなる。
バードに言われたことがある。エルダー様のおじい様もお父様も、一夫多妻のこの国では珍しく妻を1人しか迎えていない。自然とエルダー様も、1人しか妻を迎えないと決めていたそうだ。『この人』と思うただ1人に出会うまでは⋯⋯と縁談も全てお断りされていたとのこと。バードは、その『この人』にエルダー様が出会えて嬉しいと言ってくれた。
エルダー様のお義母さまも同じような事を言っていたけれど間違っている。エルダー様は行き掛かり上、わたしを家族として扱ってくれているけれど、ご自分で選んではいない。
エルダー様が『この人』と思う方を見つけた時には、邪魔にならないようにしなければならない。妹のようにと受け入れて下さった優しさに甘えていてはいけない。
初めに『この先のことは一緒に考えよう』と言ってもらったまま、まだお話をしていなかった。『どうしたい?』と言われたら、このままここにいたい、と言ってしまいそうで、考えることを物憂く感じて先延ばしにし続けている⋯⋯。
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