屋敷の図書室と、街の図書館

「先生!」


 先生が来てくれた。エルダー様が本当に先生を招待してくれたのだ。昨日、お礼を言った時には『君の大事な人なんでしょう?』と言ってくれていた。


 いつものように、眼鏡の奥から優しい水色の瞳で微笑みかけてくれる。駆け寄ってスモーキーな紅茶の香りを思い切り吸い込む。先生を感じて嬉しくなる。


 本当は小さい頃のように抱きつきたいのだけど、最初に嫁ぐ時に『もう卒業』と言われてしまっているので我慢だ。


「ピオニィ、元気だった? ここでの暮らしはどう?」

「楽しいです! とても良くして頂いています」

「そう。よかったね」


 先生がわたしの頭をふわっと撫でてくれた。


 エルダー様が少し嫌な顔をした。そうだ、こういう子供っぽいことは好まれないのだった。


「エルダー殿、ご招待ありがとうございます」


 エルダー様が握手で先生の挨拶に応える。


「約束しましたから」


 エルダー様の案内で先生とわたしが図書室に向かう。わたしもまだ入ったことがなくて、とても楽しみにしていた。


 エルダー様が大きな扉を開くと、ダンスホールのように大きな部屋が広がっていた。その壁一面を本が埋め尽くしている。


「僕の祖父がよく本を読む人でした。父に爵位をゆずった後、ここで過ごしては、どんどん本を収集していました。僕がここから学校に通っている間も頻繁に学者や知識人が遊びにきて、遅くまで議論をしていたのを覚えています」

「触ってもいいですか」


 恐るおそる聞いてみると、エルダー様が微笑んでうなずいてくれた。


 書棚に近寄り、そっと1冊手にとってみる。


(王都の歴史について書かれた本)


 開くと古い紙の匂いが広がる。虫食いもなく全く傷んでいない。大切に手入れをしているのだろう。


 書棚を眺めて進んでいくと見慣れた名前を見つけた。


「先生! これって⋯⋯」


 先生が苦笑して、本を取り上げる。


「私が書いた本だね。これは⋯⋯もう10年近く前に書いたものか。未熟な時代のものを見られるのは少し気恥ずかしいな」


 先生はパラパラと本をめくって中を見てから閉じて、元の場所に片付けてしまった。


「先のバーシュ公爵はマロウおじいさんとも交流があったんだよ」

「マロウおじいさん?」


 エルダー様が記憶を探るような顔をして先生に尋ねた。


「『マロウおじいさん』というのは篤志家のご老人で、家業を引退した後に図書館で子供たちに勉学を教えていらっしゃった方なんだ」


 王都の図書館には街の子供たちが通う学校が併設されている。学校教育は基礎的なもので、平民がそれ以上に高等な学問を修めたい時は家庭教師を雇うのが一般的だが、高額な費用が払えない子供たちのために、マロウおじいさんのような家業を引退した老人たちが、図書館で子供たちに勉強を教えていた。


 マロウおじいさんは特に語学に通じていて、言語学者のバーノルド先生が教えを乞うほどだった。その関係で、父から語学をしっかり勉強するよう指示を受けていたわたしは、先生が図書館に行くついでに一緒に連れて行ってもらってはマロウおじいさんに、語学を教えてもらっていた。


「ピオニィは勉強もしていたけど、他の子たちと遊びまわってる方が多かったかもね」


 その通り。実は勉強はそれほど好きではなかった。マーロウおじいさまとお話したり、同じ年頃の子供たちと遊ぶ事が楽しみで通っていた。父の屋敷では子供なんて誰もいなかったから、図書館でしか友達と遊ぶことなんて出来なかった。


「図書館で何をして遊ぶの?」


 エルダー様が不思議そうに聞く。


「庭の樹に登ったり、かくれんぼして土の中に隠れたり、噴水を思い切り噴き上げたり⋯⋯」


 言ってて恥ずかしくなってきた。貴族の女子にあるまじきお転婆ぶりだ。先生が呆れたような顔で続ける。


「私はいつも、この子の着替えを持って出かけてたんだよ。泥だらけで遊ばせたことが侯爵にバレたら、あっという間にクビになってしまうからね。学問の家庭教師のはずなのに何でこんなこと⋯⋯っていつも困っていたよ」

「なるほど。神殿から逃げ出すのに、ずいぶん<香力>を使い慣れていると思ったら、図書館で鍛えていたわけだ」


 エルダー様がおかしそうに笑う。


「図書館、僕は行ったことがないな」


 貴族の男子は平民とは違い王立の学校に通う。そこで学問や武芸、貴族に必要な教養などを一通り学ぶ。図書館に来るのは、ほとんどが平民だ。学者の先生はともかく、エルダー様のような貴族の子弟や、わたしのような貴族の令嬢が行くところではない。


 バーノルド先生は、わたしが泥まみれで遊ぶのを許したり、一般的な家庭教師という雰囲気ではなかったから、子供たちはみんな、わたしの事を専門の家庭教師を雇えない零落した貴族の娘だと思っていたはずだ。


「では今から、一緒に図書館に行こう」


 先生がエルダー様を誘うと、意外なことにエルダー様はそれを承諾したのだった。



「いきますよ! ほら!」


 <香力>を使って、思い切り噴水を噴き上げてみせると、周りの子供たちがわっと喜んだ。


「お姉ちゃん、お花の香り! いい匂い!」


 鼻をすり寄せてくる子もいる。


 楽しくなったので、噴き上げた水を霧にして子供たちの上から注ぐ。子供たちがキャアキャア騒ぎながら走り回っている。太陽の方向を確認して霧の向きを変える。


「虹だぁーっ!!」


 子供たちのテンションが最高潮になる。


 授業が始まる鐘が鳴り、子供たちは名残惜しそうに教室に向かって走っていった。


「へえ、虹は初めて見ましたね」

「はい、王宮の図書室で虹の仕組みを読んだので、庭でこっそり作って練習したんです。きれいでしょう?」


 先生に、もう一度虹を作って見せる。エルダー様の方からは逆光になってしまうのだろう、眩しそうに目を細めている。


「図書館というから、もっと静かで本だけを読む場所だと思っていました」


 ここの図書館は書架の辺りは静かだけど、建物に囲まれた広い中庭では人々が思い思いに過ごしている。敷物を広げて寝そべって本を読む人、ベンチに腰掛けぼんやりする人。噴水で子供たちが遊ぶ姿もいつものことだ。


「ねえ、木登りしたって、まさかあの木のこと?」


 エルダー様が中庭の端に生えている屋根よりも高い木を指さして聞いてきた。大人が数人手をつないでも囲いきれないほどの太さがある立派な木だ。


「そうですよ! ドレスを破くと、さすがに先生に叱られてしまいますから、風で体を覆うのがコツです」


 登ってみせようとして<香力>を出したところで先生に止められた。


「ピオニィ、もう子供じゃないんだから、やめなさい」


 懐かしくて、つい子供のようにはしゃいでしまった。また、子供っぽいとエルダー様に嫌な顔をされるかと思ったけれど、エルダー様は柔らかい顔で笑っていた。


「マロウおじいさん、は今日はいないんですか?」


 エルダー様の質問に、先生はちょっと困った顔をした。


「ピオニィが嫁入りする少し前に体を壊されて、遠くで静養されているらしいんだ。詳しい事は私も良くは知らない」


 マロウおじいさまに会いたい。王宮の図書室で読んだたくさんの本のこと、王宮の教師にお妃教育として習った、新しい国の言葉のこと、色々話したいことがある。


「お手紙の送り先も、どなたもご存じなくて⋯⋯」

「きっと良くなったら、また戻ってきますよ」


 先生が、ぽんぽん、と元気づけるように背中をたたいてくれる。


 エルダー様の希望で、図書館の中をあちこち案内することにした。わたしがマロウおじいさんに教わっていた教室では、何人かのお年寄りと、少し大きめの子供たちが机に向かい合っている。わたしも先生も全然使わないけれど、貴族用の閲覧室もちゃんとある。


 軽食を食べて良い部屋、従者たちが主人を待つ部屋、ちょっとした着替えなどを行える控室など他にも色々な部屋がある。


 書架のあたりでは、大きな声では話せないので少し小声で話した。自然と距離が近くなり、エルダー様の清涼感のある草原の香りを感じる。草や花の香りが混ざった爽やかな香りは、エルダー様らしい香りだと思う。


 帰り道、屋敷までの10分ほどの距離を歩きながら先生が言い出した。わたしがお願いしたくて、言えなかったこと。


「ピオニィを、たまに図書館に連れ出しても構いませんか?」


 エルダー様は、少し考えるように視線をさまよわせた。


「センセイが一緒なら。――でも」


 わたしの顔をしっかり見て、くぎを刺された。


「木登りとか、危ないことはだめだよ」

「大丈夫です、もう子供じゃないですから!」

「さっき、やろうとしたよね?」

「あれは、エルダー様に見せて差し上げようとしただけです」


エルダー様の顔には『信用できない』と書いてあった⋯⋯

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