番外編 敵国の王子は檸檬の香りと幸運の花をご所望 月夜の逢瀬

 深い森の中で出会ったのは、夜空のような人だった。


 周りの闇に紛れてしまいそうな深い青の布をまとい、顔の半ばを覆い隠す髪の間から見え隠れする、褐色の肌と切れ長の瞳。私を見る瞳が月明りが反射して輝いていた。


 美しく光る瞳から目が離せなくなり時が止まった。ひときわ大きな鳥の鳴き声が静寂を破り、私の頭が回り始めた。


『あなた、ルービンの?』

『フィモナの花⋯⋯』


 私と彼が言葉を発したのは同時だった。どちらもこの国の言葉ではない、ルービン語だ。相手が身動きし、腰に剣を下げているのが目に入った。


(ルービンの斥候兵?)


 だとしたら敵だ。この場から逃がしてはいけない。とっさに<香力>で風を起こして相手を包んだ。しかし、包んだ内側から強い風で押され私の風は相殺されてしまった。


(<香力>が強い!)


 私より強い<香力>に抵抗されるのは初めてだ。動揺を抑えて再び<香力>を放出して足元の地面を崩す。しかし、侵入者の方が素早い。瞬きする間に私の目の前に迫り、手を強くつかまれた。


「離して!」


 再び<香力>で風を起こして相手を吹き飛ばそうと試みる。侵入者は一瞬驚いたような顔をしてから<香力>を使って、また私の風を相殺した。そして、私の手をつかみなおした。


『離してってば!』


 今度はルービン語で強く言った。朝霧に濡れた香草のような甘い香りと、私の<香力>と共に放出された檸檬の香りが入り混じって漂う。つかまれた手がしびれるように痛い。もう一度<香力>を使って、今度は自分の足場も含めて大掛かりに崩そうとして気が付いた。


(<香力>が出ない! 何でこんな時に!)


 眉間に集中しても、いつもの体中から熱が集まるような感覚が起こらない。こんな事は初めてだ。狼狽して冷汗が出てくる。とにかく、つかまれた腕を自由にしたくて力任せに手を引っ張った。


『待って、傷つけたりしないから、落ち着いて欲しい』


 月明かりの中、髪が乱れてはっきりと見えた侵入者の顔には、困ったような表情が浮かんでいる。


『とにかく、手を離して!』

『だって、手を離したら<香力>を使うだろう?』


 <香力>を使えないのは、手をつかまれているせいなのか。このしびれるような感じが原因なのだろうか。


『いいから、離してったら離して!』

『君が騒がないと約束するなら』


 侵入者に剣を抜く様子はない。表情に敵意も感じられない。とにかく<香力>を復活させるのが先決だ。そうでないと、私には手も足も出せない。


『分かったわ。騒がない』


 侵入者が私の手を離した。自由になった手を確認しても傷が出来ている様子はない。しびれは傷から毒を入れるものではないようだ。


『<香力>が使えるかどうかだけ、確認だけさせてもらうわ』


 一言断ってから、少し離れた所に力を放って風を起こした。木の葉が風に舞う。<香力>が復活したようだ。私はほっと息をつく。


『驚かせて悪かった。⋯⋯君は俺の国の言葉が話せるんだね』


 私はルービン国との境に位置し、常に侵略の危機にさらされているスプルース領で育った。領主である父は頻繁にルービンの使者と協定についてや諍い事の交渉を行っている。私も父の役に立とうと幼いころからルービン語を学習してきた。でも、ルービンの人と実際に会うのは初めてだ。


『この国と、あなたの国の間では自由な往来が認められていないはずだけど』

「――森を見てみたかったから」


 私のルービン語の問いかけに、こちらの国の言葉で返してきた。


「森を?」


 侵入者は嬉しそうに笑った。


「僕の言葉、ちゃんと通じてる。勉強したんだ」

「あなたの国に森は無いの?」

「僕の国は砂の国だ。林や畑はあるけれど、こんな豊かな森はない。一度、見てみたかった」


 ルービンは砂漠が広がる国だと聞く。多少の緑はあっても、こんな深い森は無いのだろう。スプルースとルービンの間に位置し、国境となっている山が気候と自然環境を分けているようだ。


「山の向こうは、もう森ではないの?」

「うん。山頂を越えると徐々に樹木が無くなっていくんだ。生えている種類も違う。登ってみて驚いた。向こうとこちらではまるで違う世界みたいだ」

「私は砂漠が見てみたいわ。砂浜よりもずっと大きく砂が広がっているんでしょう? 絵では見たことがあるけれど、実際に見ると迫力があるんでしょうね」

「生きるには過酷だけど、美しい世界だ。特に今日のように月明かりの夜は、砂の海が光って見えるんだ」


 光る砂の海。どんな世界だろう。思わずため息が漏れた。


「見てみたいわ。⋯⋯国境からここまで、どのくらい時間がかかる? 行って帰ってくる間に、朝になってしまうかしら」


 私は月に誘われて散歩に出て来た。朝になるまでに戻れば、誰にも不在を気づかれないはずだ。


「それほどかからないよ。どんなに長く眺めても朝までかかることは無いと思う」

「では、連れて行ってもらえない?」


 私は手を差し出した。侵入者はひどく驚いたような顔をして、私が差し出した手を見た。


『本気?』

『本気よ』


 よほど驚いたのか、侵入者の言葉がルービン語に戻っている。私は手を侵入者の目の高さまで持ち上げて催促した。彼は困ったような顔でほほ笑むと、私の手を取った。


『では、行こう』


 侵入者はアドゥーサと名乗った。私は森の中を進みながら、彼の質問に答え、彼が珍しがりそうな物を見せた。彼は瞳をキラキラさせて興味深そうに森を観察していた。彼の目を通すと、見慣れた森も興味深い景色に思えて来る。


『こんな動物、見たことがない』


 私たちの歩みに驚いて逃げ出す小動物を見て、彼は子供のような笑顔を浮かべる。もっと明るい時間に見せてあげたかった。


 ほどなく国境となる山にさしかかった。 彼の言う通り、ふもとから頂まではそれほど大変な道のりではなかった。それは、私たちが二人とも<香力>を使えることが大きい。<香力>無しで登ったら3日ほどかかってしまうだろう。私たちは風で体を包んで飛ばすことで岩場も崖も簡単に飛び越えられる。


 アドゥーサは私よりも<香力>の使い方が上手かった。効率良い使い方を教えてもらって真似をしてみる。上手く出来ると褒めてくれる。同じくらいの<香力>がある人と、こんな風に過ごすのは初めてだ。どんどん進んでも同行者の心配をしなくて良い。この感覚はとても心地よい。


『あなたの国では<香力>が強い人が多いの?』

『限られた人しか使えない。フランカの国では?』

『同じよ。こちらの国でも私くらい強い人は滅多にいないわ』


 山頂に近づくと、アドゥーサの動きが慎重になった。


『あちらに君の国の見張りがいる。静かにね』


 そっと気配を殺して、まばらになってきた木の間を通り抜ける。見張りも軍勢を警戒しているらしく、少人数の私たちには気が付く様子がなかった。


(斥候が通れちゃうじゃない、後で砦に報告が必要ね)


 山にルービン側の見張りはいないようだ。苦労なく国境を越えると、眼下にはアドゥーサが言った通りの景色が広がっていた。星空が広がる砂漠は、天空と地上が一体になったようだ。砂の波が織りなす美しい模様が地平線を彩っている。右手にわずかに海が見える。所々にキラキラと光る湖と緑、街が見える。


『――明るいのね』


 同じ月明かりなのに、森の中と砂漠では昼と夜ほど明るさが違うように感じる。私たちは山から少しだけ下ったところにある、岩の上に並んで腰かけた。


『アドゥーサが住んでいる街はどこ?』

『ここからは見えない。砂が丘のようになっているから、影に隠れてしまっているんだ』

『こんなに遠くまで、どうやって来たの? 馬が走れるの?』

『馬も走れるけれど、君の国の馬とは少し違うよ。砂漠に強い体格の大きい馬なんだ。でも僕は<香力>が使えるから、馬よりも風に乗った方が早い』

『楽しそうね』


 砂の上を滑るように進むアドゥーサを想像した。まとっている夜空のような布が風でたなびく姿は美しいだろう。


『連れて来てくれてありがとう』


 お礼を言うと、アドゥーサはふわっと笑った。背が高く体がしっかりしているけれど、笑顔には少し幼さが残っている。私と同じくらいの年齢だろうか。彼と、好戦的だと聞いていたルービンの印象は嚙み合わない。


『私、ルービンの人はみな戦が好きだと聞いていたから、あなたが斥候兵だと思ったの。突然攻撃してごめんなさい』

『謝ることはないよ。国同士の取り決めを破ったのは俺の方だから』

『今は私の方が破っているわね』


 ここはルービンの領土だ。私は無断で国境を越えている。父に知れたら大目玉どころでは済まないだろう。


 私たちはお互いの国の事をたくさん話した。こんなに距離が近いのに、戦以外ではほとんど接することがない。ルービンは大陸の端に位置するので、陸で国境を共にするのは私の国だけだ。外国と接することがなく、独自の文化を発展させてきたルービンは、何もかも私の国とは違うようだった。


 アドゥーサの話を聞くのは楽しい。アドゥーサも、私の話を熱心に聞いてくれた。二人でたくさん話して笑い合う。今日初めて会った敵国の人とは思えない。


『アドゥーサ、さっき私の<香力>を使えなくしたでしょう。あれは、どうやったの?』


 アドゥーサは自分の手のひらを出して、手のひらを指で押さえるようなしぐさをした。


『手には<香力>を抑えさせる痛点があるんだ。そこを押さえた』


 自分で手をぎゅうぎゅう押してみるけれど、よく分からない。手のひらをアドゥーサに出す。


『もう1回やってみてもらえない?』


 アドゥーサは驚いた顔をしたけれど、素直に私の手を取って中央辺りをギュッと押さえた。先ほどと同じしびれるような痛みを感じる。<香力>を出してみようとするけれど、やっぱり出ない。


『わ、本当に出ないのね!』

『君は異国の人だからかな。俺の国の人間とは、少し痛点の位置が違うようだ。だから最初につかんだ時には<香力>を止めることが出来なかった』


 思い返してみれば、一度つかみ直された気がする。


『ね、手を貸して。私もやってみたい!』


 アドゥーサは戸惑ったような顔をして少し躊躇った後、私に手を差し出した。私はさっきアドゥーサに押さえられた辺りを押してみた。


『ね、どう?』


 アドゥーサが笑って風を起こした。


『これは?』


 また風が起こる。全く痛点を押さえられない。何回か繰り返すうちに、アドゥーサが大笑いをして呆れたように言った。


『君は不器用だね』


 悔しいけれど、そう簡単には出来ないようだ。辺りがアドゥーサから放たれる香草のような甘い香りでいっぱいになった。


『あなた良い香りがする。この香り好きだわ』


 私がアドゥーサに少し顔を近づけて香りを吸い込むと、アドゥーサが耳まで真っ赤にして黙り込んでしまった。褒められたのは初めてなのだろうか。


 そして真っ赤な顔のまま、少しうるんだ瞳をしっかり私に向けて言った。


『君も檸檬のような良い香りがする。俺も君の香りが好きだ』

『あ、ありがとう』


 深い意味はなく褒めたつもりだったけれど、アドゥーサの反応を見ると、ルービンではあまり<香力>を褒める習慣がないのかもしれない。


 月が傾く頃に、アドゥーサは最初に会った森まで送ってくれた。私はもう二度と会う事は無いつもりでお別れを言ったけれど、アドゥーサは「今度、迎えに行く」と言って、私の手に何かを握らせて去っていった。

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