番外編 敵国の王子は檸檬の香りと幸運の花をご所望 届かなかった想い

 目を覚ますと昨夜の事が夢のように思えた。ここはいつも暮らしている城ではない。国境に近い場所にある砦で、私は新しく作られた砦を視察するという理由をつけてここに来ている。


 昨晩は月明かりに誘われて夜中の散策に出た所でアドゥーサに出会った。


 深い青の布をまとったアドゥーサと、夜空に瞬く星のように美しく光る瞳。思い切り気兼ねなく<香力>を使って一緒に登った山。一緒に眺めた美しい砂漠の世界。初めてばかりのルービンの話。


 ふと、紫の光が目に入った。窓際で日差しを受けて輝いている。


(――夢ではない)


 別れ際にアドゥーサが私の手に残したのは耳飾りだった。一緒にいる間、彼が身に付けていたものを残していった。ガラスで出来た美しい薄紫の玉が数個連なっている、この国では見られないような繊細な細工が施されたもの。窓際に歩み寄って手に取ってみる。


(私の瞳の色に似ている)


 耳飾りから、朝霧に濡れた香草のような甘い香りが立ちのぼっている。恐らくアドゥーサの<香力>の名残だろう。


 物に注いだ<香力>は数日から1か月ほどで力が失われるけれど、香りだけは長い期間残り続ける。父は去ってしまった想い人に<香力>を注いでもらった木剣をとても大切にしている。10年近く経つ今でも、その人の香りが残っているのだ。


 アドゥーサが別れ際に言っていた『今度、迎えに行く』を思い出す。あの言葉は私の国の言葉だった。不慣れな言葉だから、別れの言葉を選び間違えたのだろう。


 夢のように楽しかった想い出、それで終わる。この時はそう思っていた。



 砦で私がやることは何もない。ただ、起きて辺りを散策する、持ち込んだ本を読む。それしかする事が無いから滞在数日で飽きてしまった。


(でも、しばらく城には戻りたくない)


 ここに来る前に私は失恋した。幼い頃から好きだった兵隊長のグリュートの結婚が決まったのだ。


 グリュートは長年父に仕えている兵士で、城の兵士の訓練を取りまとめている。数年前に若くして隊長に抜擢された有能な男性だ。幼い頃は訓練所で遊んでくれる優しいお兄さんとして慕っていたけど、いつの頃からかそれが恋心に変わった。


「グリュート、大好き。私と結婚して」


 何度言ったことだろう。そのたびにグリュートは「お父様に殺されちゃいますよ」と笑って相手にしてくれなかった。


 確かに私は、領主であり伯爵でもある父のたった一人の娘なのだから、しかるべき貴族の男子を婿として迎える事を望まれている。でも、私に甘い父のことだ、私とグリュートが本気で望めば、何とかなる気がしていた。


(でも、望んでいたのは私だけ)


 私が結婚できるようになる16歳になったらグリュートも本気で考えてくれるかもしれない。そう思っていたけれど、何度伝えても本気で受け取めてもらえず、そのまま17歳を迎えてしまった。


 そこで耳にしたのが、グリュートが結婚する、という話だった。


 もともとグリュートは私よりも10歳も年上だったから、結婚していておかしくない歳だった。私が大人になるのを待っているのかもしれない、そんな希望を持った時期もあったけれど、実際には仕事に打ち込んでいただけだったようだ。そこに、おせっかいな同僚が奥さんになる人を紹介して、縁談が調ったらしい。


 グリュートの嬉しそうな顔を見たくない。おめでとうも言いたくない。だから、逃げるように砦にやってきた。暇だからといって城に戻る気にはなれない。


(何をしようかな)


 長椅子の上で伸びをした時だった。風と共に、心を刺激する香りを感じた。


(香草のような甘い香り⋯⋯)


 窓際に置いてあるアドゥーサの耳飾りに目を向けた。しかし、そこには窓枠に手をかけて部屋に入ろうとしているアドゥーサ本人がいた。


「アドゥーサ! 何をしているの!」


 アドゥーサはよいせ、と部屋の中に入ると服装を整えた。飾り気のないズボンとシャツの上に、今日も美しい布をまとっている。どういう仕組みになっているのか、身体よりも少し幅が広い布は腰と胸を覆い、肩から背中に流れてふくらはぎの辺りまで続いている。今日は森の葉のように深い緑色。動きとともに光を受けて輝く、わたしの国では見かけない素材だ。


 アドゥーサが顔を上げると、俯いていた時には顔を覆っていた長めの髪が、さらさらと流れて瞳が現れた。数日前の夜と同じように光る美しい瞳。今日は月の光ではなく、日の光を受けている。


「フランカ、迎えに来た」


 アドゥーサは私の顔をみて、にっこりと笑った。


『迎えに、と言っている?』


 ルービン語で確認する。アドゥーサもルービン語で言い直した。


『約束通り、君を迎えに来た』

『どうして私の居場所が分かったの?』


 アドゥーサと出会った森からここまで、それほど離れていないけれど、この砦のこの部屋が分かったのは驚きだ。アドゥーサは窓際の耳飾りを手に取って、私の方に歩み寄った。


『俺の<香力>を込めてあるから、これを追って来た』


 そして、私に耳飾りを付けて、眩しそうに目を細めた。


『君の瞳の色と同じだ。良く似合う』

『よく見張りに見つからなかったわね』


 アドゥーサは得意げに笑った。


『砦の警備は穴だらけだよ。<香力>を使わなくても簡単に忍び込める』


 これも後で砦に報告しなければならない。でも、アドゥーサを侵入者として突き出すつもりは無い。


『迎えに、ってどういう意味? 私にルービンに一緒に行こう、と言っているの?』


 森で別れ際に言っていた『迎え』は言葉の選び間違いではなかったようだ。私の質問に、アドゥーサは不思議そうな顔をする。


『君が求婚してくれたから、ルービンに来てくれるものだと思った。俺は間違っている?』


(求婚!!)


 心当たりはある、<香力>を褒めたことではないだろうか。あの時アドゥーサが真っ赤になってしまったから、何か誤解を招く表現だったのかも⋯⋯とは思っていた。でもまさか、求婚という意味まで持つとは思わなかった。

 ――でも今はルービン語で話している。もしかして、私の方がルービン語を誤解しているかもしれない。


『求婚って、愛を伝えて結婚しましょう、という意味で合っている?』

『うん。俺の国では、女性から男性に求婚することは無いんだ。君の国は女性の方が多いと聞いているから、積極的なんだね』


 いや、女性が多い国ではあるけれど、こちらでも女性から求婚することは少ない。どうやら私は意図しなかった事とはいえ、アドゥーサに求婚してしまったようだ。


 父が言葉だけでなく歴史や文化を学ぶようにと、口を酸っぱくして言っていた。私は勉強が嫌いだから聞く耳を持たず、言葉だけ分かれば十分だとたかをくくっていた。今なら父の言うことが理解できる。


(どうしよう、誤解だって伝えないと)


 アドゥーサは私が考え込んでしまったので、少し不安そうな顔になっている。どう伝えようか言葉を選んでいるうちに気が変わった。


『あなたは私の求婚を受け入れてくれた、ということよね?』


 私が求婚してしまった時、アドゥーサも同じように私の香りを褒めてくれた。それは求婚に応じてくれたということだろう。礼儀上断れなかったのか、私に魅力を感じてくれたのか、分からないけれど。


 アドゥーサは、また真っ赤になった。


『とても、嬉しかった。最初に君を見た時に、フィモナの花のようだと思って惹かれたんだ。それに俺の国の女性は大人しくて控えめで、ほとんど話さない。でも君は、たくさん話をして気持ちを表に出して、とても大胆だ。一緒にいて楽しい』

『フィモナの花?』


 アドゥーサは、遠くを見るような目をした。


『幼い頃に一度だけ見たことがある美しい花だ。砂漠で数年に1度、たった1日だけ咲く花で、どこでいつ咲くか誰にも分からないから、幸運の象徴と言われている。君の瞳のように美しい紫色をしている。君にもいつか見せたいな』

『あの⋯⋯私は何番目の妻になるの?』


 この国は一夫多妻だから、若くても既に数人の妻や婚約者がいる事がある。1人2人ならともかく5番目などと言われたら、ちょっと抵抗がある。でも、アドゥーサは少しムッとした顔をした。


『俺の国では、妻は1人と決まっている』


 アドゥーサは私の軽はずみな求婚に、思った以上の覚悟で応えてくれたのだ。何度も口にした『結婚して』は一度も伝わらなかったのに、意図しなかった求婚は一度で伝わった。何だか面白くなってしまった。


(それなら、結婚しちゃおう)


 どうせ、幼い頃から想い続けたグリュートとは結婚できない。良く知らない誰かと政略結婚するなら、アドゥーサでも良いではないか。それに、私はアドゥーサの瞳をとても美しいと思う。それで十分だ。


『迎えに来てくれて、ありがとう』


 私はアドゥーサの瞳を見つめて笑いかけた。アドゥーサも嬉しそうに笑ってくれた。

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