スプルース領への旅
スプルース領は国境に面していて、王都からは馬車で10日ほどかかる距離にある。10日間もスプルース伯爵とふたりで馬車にゆられるかと思うと憂鬱だ。
「あんた、瘦せたんじゃないのか」
馬車に乗り込むなり伯爵が不躾なことを言う。
「薬を混ぜられているのに、食べられません」
伯爵がため息をつく。
「俺は薬を混ぜないから、この先はちゃんと食べろ。領地に着く前に倒れられてはたまらない」
「⋯⋯はい、承知しました」
伯爵は馬車に書類の束を持ち込んでいた。領主が長く領地を空けると仕事が溜まってしまうのだろう。わたしは邪魔にならないように端に座って窓から外を眺める。
わたしはほとんど王都から出たことがない。父の領地と王都は馬車で2日もかからない距離だし、その領地にも、母が死んだ時に王都に移ってから一度も行っていない。10日も旅をするのは初めてだ。
奴隷のように連れ去られるのではない。自分の意志で仕事をしに行くと考えてからは旅自体も少し楽しみに思えるようになった。
スプルース領、どんなところだろう。
国境と海に面している広大な領地だったはずだ。大きな湖がある美しい景色を旅行記の挿絵で見た。本物が見れるかもしれないと思うと、こんな時でも少し胸が躍る。
スプルース領と国境を共にする隣国のルービンは小国だが荒々しい国民性だと聞く。過去に何度か侵略を受け、その都度スプルース領の兵士たちが撃退してきたそうだ。戦記も多くあり何冊か読んだことがある。
アベル様のところで、わたしの<香力>を見て、わたしを欲しいと思ったなら戦いに<香力>を使いたいということだろう。
そんなことを考えているうちに、知らず伯爵を眺めてしまっていた。視線を感じた伯爵が目を上げる。
「どうした?」
「お邪魔して申し訳ありません。スプルース伯爵が、わたしの<香力>をどうお使いになるつもりなのか、想像していました」
伯爵が少し嫌な顔をする。
「その呼び方は止めろ。仮にも婚約者を装うのだから、イシルと呼べ」
特に反対する理由はないので大人しく従うことにする。
「承知しました」
「で、<香力>の使い道を、どう想像した?」
「ルービンとの戦いに備えて、兵士の方々の戦力を上げたいのかと。オークリー様のお屋敷で<香力>を使った戦い方を試すわたしたちを見て、スプルース領の兵士にも同じことをさせたい、と思われたのでしょうか」
「なぜ、ルービンとの戦いに備えている、と思った」
「ルービンの国王は大変高齢だったはず。あの国の国王は存命中に退位しません。後継者の争いが起こっているか、後継者に決まった王子が力を示すため⋯⋯どちらかの理由で、こちらの国への侵略を計画していることを察知したのではありませんか?」
イシル様が書類を置いて、こちらに向き直る。
「やっぱり、あんた面白いな。俺が見た王都のご令嬢はみんな、着飾る事と結婚にしか興味が無さそうだったのに」
わたしが知っている貴族の令嬢はミネオラくらいだから『普通』のご令嬢が何に興味があるかなんて知らない。
「これでも王妃でしたから、外国の状況くらいは習っています。それで、わたしの推理は正解ですか?」
イシル様は満足そうに笑った。
「正解だ。ルービンでは後継者が力を示そうとしている。あんたなら、どうやって兵士たちを強くする?」
わたしは少し考える。
「わたしが剣に<香力>を加えると強度が上がりますが、2~3日しか持ちません。戦いに立ち会ったとしても助力できるのは、せいぜい一度に3~4人でしょう」
リンデル様との訓練を思い出す。
「オークリー邸で、筋力など剣術の基礎力を上げる訓練を手伝いました。大人数にも効果が出るような方法があると思います。⋯⋯少し考える時間をください」
「分かった。必要な情報は教える」
わたしはルービンの兵士の戦い方やスプルース領の騎士たちの<香力>の強さなどを聞いた。
到着するまで考える時間はたっぷりある。
◇
馬車に揺られて3日経った。
イシル様は最初の印象と違って親切で、わたしは快適な旅をしていた。暇なので、たまに書類のお手伝いもしている。
イシル様は隣国のルービン語は得意だけど、それ以外の外国語が苦手なようだ。苦心している時には、わたしが代わりに翻訳する。訳の解釈について相談相手になることもある。
エルダー様のお手伝いをして、契約や規律のような文章も読み慣れていたので難しい事ではない。
「あの、取り決め以上にお役にたっているようなので、条件を少し変えられないでしょうか」
「どう変えたい?」
「イシル様が満足する働きが出来たら、王都に帰りたいです」
イシル様が呆れたような顔をする。
「あんた馬鹿ではないのに、本当に交渉が下手だな」
「どのあたりが下手でしょうか」
「教えない。上手くなられても困る」
最初の交渉が下手だと言われたのは、終わりを決めなかったからだと反省している。だから、この機会に取引を終えられる条件を追加したいと思ったのに。
「俺も条件を追加する。それを承知するなら、俺もあんたの条件を受け入れよう」
「どんな条件ですか?」
イシル様は、少し言いにくそうにした。
「領地に俺の娘がいる。まだ幼いが母親を失っていて、使用人にはあまり懐いていない。もし娘があんたを気に入ったとしたら、仲良くしてやって欲しい」
娘を思う父という印象が似合わなくて少し驚いた。でも、娘さんと仲良くするのは嫌じゃない。むしろ楽しみだ。
「はい。喜んで」
イシル様がまた呆れたようにため息をつく。
「そういうところだ。『喜んで』なんて言ったら、足元をみられて交渉が不利になるだろう」
なるほど。言われてみればそうだ。
それでも自然と娘さんを想像すると、笑みがこぼれてしまう。そんなわたしを見るイシル様の顔には、明らかに『馬鹿だな』と書いてあった。
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