初めての海、初めての森
(海だ!)
わたしは馬車の窓にぴったり張り付いて外を見た。
本物の海をこんなに近くで見るのは初めてだ。遠目でしか見たことがなかったので波が岸に砕けるしぶきに、迫力を感じて驚く。
きっと淡い茶色の岸は砂で出来ているのだろう。土よりも柔らかそうに見える。波の音が聞こえる。耳慣れない鳥の鳴き声も聞こえる。この馴染みのない香りが潮の香りというものだろうか。
街で昼食を終えた後、イシル様は『来い』と馬車とは違う方に歩き出した。連れられて着いたところは砂浜だった!
(砂! 波! あれは貝殻?)
波打ち際まで走って行こうとして砂に足を取られた。
「んきゃっ!」
無様に転んでしまう。痛みよりも砂の温かさに驚く。それほど気温が高くないのに、土よりもずっと温かい。
「おい! 落ち着け!」
慌てて駆け寄って来たイシル様に引っ張り起された。
砂はこんな触り心地なのか。文章で『流れるよう』という表現されているのが実際に見てみると良く分かる。
ひとすくい、持ち上げてみる。手のひらを開くと、さあっと下に落ちる。
今度は転ばないように慎重に歩いて波打ち際まで行ってみる。近寄りすぎると濡れてしまいそうだ。
<香力>を使って海水を持ち上げてみる。
噴水の水よりも混ざりものが多いようで扱いにくい。手元に引き寄せて手のひらに落とす。馬車を降りた時に感じたよりも、もっと強く潮の香りがする。
「<香力>が戻ったのか?」
「はい、まだ完全ではないですが少しずつ戻っています」
「そうか」
イシル様は安心したように表情をゆるめた。
「あの、連れてきて頂いてありがとうございます」
「あれだけ窓に張り付いて見ていれば、催促されているようなものだ」
本来は優しい人なのかもしれない。さりげなく、わたしが快適に過ごせるように気を配ってくれていることには、少し前から気づいていた。それでも強硬な手段を取らざるを得なかったくらい、隣国に脅威を感じているということか。
ふと思いついた。両手を出して海水をまとわせる。そのまま、水だけを周りに飛ばす。
「わあ! パリパリする!」
真っ白な塩で両手が覆われた。
「イシル様。これ、顔にされたら嫌じゃないですか?」
「⋯⋯嫌だな」
「これと砂を混ぜて吹き付けたら、とても嫌じゃないですか?」
「かなり嫌だな」
わたしが何を言いたいか分かって来たようだ。
「<香力>が万全だったら、どのくらいの広さに吹き付けられそうだ?」
「海の水は真水よりも扱いにくいので、試してみないと分かりませんが⋯⋯恐らく、闘技場の広さほどは可能だと思います」
風の扱い方次第では、かなり広範囲に撒くことが出来る。目に入ればかなり痛いはずだし、呼吸もしにくいはずだ。
(ほんとかな?)
ちらっとイシル様を見ると『試すなよ』とくぎを刺されてしまった。
「ただ、敵味方を区別するのが難しいので使える場面は限られそうです」
「目と口を覆う防御をする、という手もあるな」
例えば海から大人数で攻撃をされた時<香力>を使えば、大勢の味方を守れるかもしれない。戦いにおける<香力>は、思った以上に色々使い道がありそうだ。
自然の風が吹き、わたしの髪が顔にかかった。払いのけようとしてイシル様に手をつかまれた。
「その手で顔を触るな。目に入る」
たしかに、わたしの手は、まだ塩まみれだった。もういちど海水をくみ上げ今度は水だけを残して手を洗う。
「あんた、大人だろう。うちの娘の方がまだ淑女らしい振る舞いをする」
「お嬢さんは、おいくつですか?」
「7歳になったところだ」
わたしが7歳の時は、バーノルド先生には出会っていたけれどまだ図書館には通っていなかった。他の先生は必要なことしか話してくれないから、バーノルド先生しか話し相手がいなくて、先生が来ない日はとても寂しかった。
もしイシル様のお嬢さんもそうなら、友達になれるといいな、と思った。
「そろそろ、いいか?」
イシル様が尋ねる。
「はい、ありがとうございました」
「転ぶなよ?」
バーノルド先生が言いそうなことだな、と思うと無性に先生に会いたくなった。
◇
王都を出発してから、もう9日が経った。昨日からスプルース領に入っている。海を離れて内陸に入り、森の中を進んでいる。予定通り明日には屋敷に到着するそうだ。
「この辺りは街もないし見せてやれるものもない。悪いな、退屈だろう」
イシル様は海に行って以来、街に立ち寄ったった時や珍しい景色がある場所では案内してくれるようになった。お礼を言うと『大したことではない』と、ちょっと照れたような口調で返された。
「わたしは森を見るのが初めてなんです。王都で森だと思っていたものは、ただの林だったのですね」
どこまでも樹が続いていて奥の方は薄暗くて良く見えない。さっと動くものは、獣なのだろうか。
やがて少し開けたところで馬車を止めて休憩することになった。広げられた敷物の上に腰掛ける。従者たちも、思い思いの場所でくつろいでいる。
樹の香りが濃くたちこめている。少し湿ったような土の香りもする。歩いてみたくなって、みんなから少し離れてうろうろと散策した。
林に比べて木の根が多く歩きにくい。落ち葉の季節ではないのに地面には何かが色々積もっていて柔らかくなっている。
「あまり奥に行くな、危ない」
イシル様が後を追いかけてきた。世話の焼き方がバーノルド先生だ。思わず笑ってしまう。
「なぜ笑う?」
「わたしの家庭教師だった先生と、注意の仕方がそっくりです」
イシル様が困ったような顔をした。
「あんたの先生は、ずいぶん大変だったろうな。同情する」
エルダー様も同じようなことを言っていた。わたしはもう大人だから、そんなに心配されなくても大丈夫なのに。
エルダー様は今頃どうされているだろうか。思い出すと会いたくなってしまうので、頭から締め出す。
気が付くとイシル様がぼんやりと、わたしを見ていた。
「どうかされましたか?」
「いや、たくましい、と思っていた。あの侯爵とは似ていないと思っていたが、何というか不屈の心のようなものは、似ているのかもしれない」
「父に似ていると言われるのは、嬉しくありません」
「すまない、褒めたつもりだ。最初あんなに頑な態度だったから、ずっとあの調子だったら困ると思っていた。でも今のあんたは、むしろ楽しんでいるように見える」
「お伝えしたでしょう。わたしは自由を奪われたくなかっただけです。わたしの意思を尊重して頂けるのなら、反抗する理由はありません」
「そうだな。あのまま脅して従えても、あんたは思い通りにはならなかったかもしれないな。⋯⋯悪かった」
素直に謝られたことと優しい笑顔に、最初に話も聞かず、あんな態度を取ったことを少しだけ申し訳なく思った。
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