<香力>を使った訓練

 訓練に<香力>を使うことに一番熱心だったのはリンデル様だった。次に参加した時には、試したいことの一覧が作られていた。


 風を予測できないような形で吹かせて打ち込みの邪魔をする

 素振りの時に風で負荷をかける

 足場を不規則に崩して足腰を鍛える

 水を吹き付けて雨を再現する


 少しずつ試しては方法を改善していく。大抵はアベル様が若者たちの訓練を見ている時にリンデル様が試す。試して良かった内容の一部を若者たちの訓練でも使う。


 しかし日に日にリンデル様の訓練の時間が長くなってきた。最近は、両手剣の真剣や槍の訓練まで始めた。


 どう考えても若者たちの訓練の為ではなく、ご自分のためだ。


「わたしは、兄に勝ちたいのです」


 騎士としての美学は良いのか、とミネオラが聞くとリンデル様は恥ずかしそうに言った。


「兄に勝てるのなら、悪魔にでも魂を売りましょう」

「大げさねえ」


 呆れたように言いながら、ミネオラは訓練に付き合っている。ミネオラ自身は体力的に付いて行けないが、剣士としてリンデル様が求めている負荷が分かるので、わたしに通訳してくれるのだ。


 リンデル様は戦いの途中で<香力>の力を借りることは望まなかった。<香力>を使って、自分の筋力や持久力、わたしには良く分からない技術を上げる訓練をしているらしい。


 アベル様は最初こそ<香力>に興味をしめしていたけれど、<香力>に頼るのは誇りが許さない、と若者の体力向上くらいにしか使わない。


「奥方! お願いします!」


 いつものようにリンデル様に<香力>で負荷をかけていた。今日は土砂降りの雨を再現したい、とのことで水場の近くで訓練をしていた。わたしは何もないところから水を産み出すことは出来ないので地面を水浸しにし、その水を降らせてはまた持ち上げて、と循環させて雨を再現していた。


 泥まみれにするのは気の毒なので、水浸しの地面から土を除いて水だけを取り出すという、なかなか神経を使う作業だ。<香力>を使い慣れているわたしでも集中するし消耗もする。


 だから、わたしたちを見つめる視線には全く気付かなかった。


「<香力>で面白いことが出来るものですね」


 突然声をかけられた事に驚いて集中力が切れてしまう。雨が止んだことで、リンデル様が不審そうにこちらを見て、すぐに慌てて駆け寄ってきた。


「スプルース伯爵、父上!」


 振り返るとオークリー伯爵と見た事がない男性が立っていた。わたしに声を掛けたのは、見たことがない男性の方らしい。


 わたしは、丁寧に淑女の礼をして顔を伏せる。


「これは⋯⋯」


 オークリー伯爵が口ごもる。わたしにどう接すれば良いか戸惑っているのだろう。


 王妃時代にオークリー伯爵から近衛隊長として挨拶を受けたことがある。近衛隊にとって王家の人間は絶対的な存在だ。元王妃の事もないがしろには出来ないのだと思う。


 わたしに気が付かなければいいと思ったけれど、そこはさすがに近衛隊長。顔を覚えていたようだ。今は息子の友人の妻、という格下の立場になったとはいえ、どう接するか迷うはずだ。


 わたしはさりげなくリンデル様の後ろに隠れるように下がった。


「父上、こちらにいらっしゃるとは、珍しいですね」


 オークリー伯爵が、ほっとしたような声でリンデル様に答えた。


「スプルース伯爵が、ここでの訓練を見たいとおっしゃったのでお連れした。街の若者たちへの簡単な訓練だから、たいして面白いものでもないとお伝えしたのだが」


 スプルース伯爵、と言われた男性が面白そうに答えた。


「いえ、大変興味深いです。私の領地では剣術が盛んです。若いやる気がある者たちを、どう導いていくかは悩みの種です。――ところで先ほどの水を使った訓練はどういうものですか?」


 リンデル様が説明すると、オークリー伯爵が呆れたように言った。


「お前は、遊びのようなことをしている場合ではないだろう。兄を目指すのではなかったのか?」


 顔を伏せていても、リンデル様がしょんぼりしたのが分かった。懸命に訓練しているのだが、オークリー伯爵から見ると遊びのように見えてしまうのだろう。


 しかし、スプルース伯爵は興味を持ったようだ。


「<香力>ですか。私はこのような訓練を初めて見ましたが、王都では普通なのですか?」


 リンデル様が答える。


「いえ、少なくとも私は聞いたことがありません。この方の<香力>くらい強くないと、このような訓練は出来ないので」


 わたしの方を振り返ったようだ。わたしは礼の姿勢を保ち、顔を伏せたままにしている。背中がぷるぷるしそうだが、何となくスプルース伯爵には関わりたくない、という気持ちがある。


「あなたは、この家の方では無いようですが⋯⋯」


 暗に名乗れと言われているが、わたしはそのままの姿勢と無言を保った。その場の空気が張り詰める。オークリー伯爵が、わたしに名乗ることを無理強いできないと踏んでの行動だ。申し訳なく思うけど、本当にこのスプルース伯爵には関わりたくない。オークリー伯爵とリンデル様が戸惑っている様子が、顔を伏せていても伝わってくる。


 そこに、アベル様が加わった。


「父上、何かございましたか?」


 オークリー伯爵が、明らかに助かったという声色でアベル様と話を始めた。そのまま、スプルース伯爵を促して屋敷に戻っていく。


 少し離れたのを確認して、わたしは顔を上げた。背中が痛い。


 ほっとしたところで、鋭い視線に気が付いた。


 スプルース伯爵が、こちらを見ていた。漆黒の髪を後ろにまとめた姿から武人としての威厳が漂っている。伯爵としては若く、恐らくバーノルド先生よりも若いのではないだろうか。早くに先代を無くして爵位と領地を継がれているのだろう。


 スプルース領といえば、野心的な隣国との国境にある。剣術に熱心な土地というのは納得できる。かなり年上の近衛隊長まで務めているオークリー伯爵と同格として話をしていたことから、かなり力を持っている人物なのだと思う。


 スプルース伯爵の薄紫の瞳からは、父と同じ種類の冷たさを感じた。最初に声を掛けられて、一瞬見た時に感じたことは間違いではなさそうだ。


 父と同じ『役にたつ物を見つけた』そういう視線だ。


 早く、わたしが見えない所まで行ってほしい。青い顔をしているわたしを、アベル様とリンデル様が怪訝そうに見る。


「すみません、雨は疲れるのでしたよね。少し長くお願いしすぎましたか?」

「ありがとうございます。少しだけ疲れたので、休憩させてください」


 わたしはミネオラの方に行き、訓練を終えて汗を拭く彼女に、ぎゅっとくっついた。


「なに? どうしたの? 汚れるわよ?」

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