伯爵との取引き

 スプルース伯爵がやってきたのは、数日後のことだった。


 今日も<香力>は出せない。


 伯爵の漆黒の長い髪を後ろにまとめた姿は記憶のままだったが、アベル様のところで会った時よりは軽装のせいか威圧感は少し減っている。それでも、薄紫色の瞳から投げられる視線は、父と同じく物を値踏みするものだ。


 部屋に通された伯爵は使用人を下がらせた。


「イシル・スプルースだ。今度こそ名前を聞かせてもらえるか」


 名前など、とっくに知っているくせに。自分に従わせようという態度に怖気だつ。


 わたしは敢えて何も答えず、慇懃なくらい丁寧に礼をする。そして、そのまま顔を伏せたままにする。


「はっ! 面白いな。よほど俺のことが嫌いらしい」


 笑いながらわたしの所まで歩いてくる。わたしは乱暴に両腕をつかまれて、むりやり引っ張り上げられる形で顔を上げさせられた。あまりの力の差に、涙が出そうになる。


「面白いが、言う事を聞かないのは困る」


 わたしは絶対に従うものか、という意思を込めて伯爵を睨みつけた。容赦ない力でつかまれている腕が痛い。伯爵はわたしを上から下まで観察するように眺めた。


「本当に<香力>が使えないのか。使えたら、俺の事など簡単に吹き飛ばせるはずだな」


(伯爵も知っている。わたしが<香力>を使えなくなっているのは、やはり父のせいなの?)


 わたしの表情を読んで、また笑う。


「あんたは薬を盛られているんだ。どんなに頑張っても薬の効果が切れるまで<香力>を使えないはずだ」


 そうだったのか。理由が分かって納得はしたが、自分のうかつさが悔しい。父にそんなことが出来るとは知らなかった。逃げる最後の機会は、この屋敷に来る馬車だったのだ。


(どうすれば⋯⋯)


 ここを発つのは来週と父が言っていた。薬はどのくらいで効果が無くなるのだろう。この屋敷に来て、父がわたしと会うまで1週間ほどあった。その1週間が<香力>が使えなくなるのを待っていた期間だったとしたら、効果が切れるのも同じくらいだろうか。それまで飲まず食わずでは、<香力>が戻るよりも体力が尽きる方が先だろう。


(わずかに水分を摂るだけなら、薬の効果も薄まるかもしれない)


 つかまれた腕が痛くて思考を邪魔する。抜け出そうとして後ろに下がって腕を引っ張るが、全く離してもらえない。何歩か下がるうちに、壁にぶつかってしまう。


「あんた、侯爵に初めて逆らったらしいな」


 伯爵はわたしの両腕を壁に押し付けて、心の動きを全て把握しようとするかのように、視線をわたしの顔に固定する。


「あんた、エルダー・バーシュに惚れているのか? 陛下の命令による政略結婚だと思っていたが。離れたくなくて、俺との結婚を避けているのか?」


 表情を読まれてなるものか、と懸命に平静を保つ。


「くだらない憶測はやめて」


 わたしが初めて口をきいたからか、伯爵の表情が面白がるものに変わる。


「わたしが父の命令に従わないのは、あなたの事が嫌いだからよ。最初に見た時から大嫌いだわ。結婚したって、あなたになんて絶対に従わない」


 出来る限りの言葉で罵った。言う事を聞かない使えない人間だと思って、結婚を考え直してほしい。伯爵は手を離すと、考えるように視線を宙にさまよわせた。その隙にわたしは、伯爵から離れて部屋の中央まで移動した。強くつかまれていた腕を見ると、真っ赤に痕が残ってしまっている。


 伯爵がゆっくりとこちらに向き直った。


「エルダー・バーシュに不利益を与える事は簡単だ。やめて欲しければ従え、と言う事もできる」


(――やめて、やめて!)


 わたしの反応を探っているのが分かる。わたしは顔にも声にも感情が出ないように慎重に口を開く。


「無駄よ。そんな事しても、あなたに従ったりしない。あなたが言った通りエルダー・バーシュ様との結婚は政略で決められた事だもの。わたしは嫌だったのよ。どうしたらバーシュ邸から出られるかを考えていたくらいだわ」


 もっともらしく聞こえるように嘘と真実を混ぜて伝える。


「わたしは、誰とも結婚したくない。父の思うがまま、物のように扱われたくない」


 伯爵の薄紫の瞳をしっかり見つめた。結婚を避けられてエルダー様にも迷惑がかからない方法。懸命に頭を働かせて思いついたことが1つ。でも、伯爵に通用するだろうか。緊張で声が震えそうになるのを必死で抑えて、こぶしを握り締める。ここで失敗したらエルダー様に迷惑がかかる。


「あなたと取引がしたい」

「どんな?」

「あなたは、わたしの<香力>を使いたい。わたしは自由を奪われなくない。だから、結婚を白紙に戻してくれるなら、わたしの意思であなたに協力をする。それなら、あなたは目的を果たせるはず」


 伯爵は揶揄するような笑みを浮かべた。


「へえ、なるほどな」


 伯爵はしばらく、わたしの顔を見つめた後、片手を差し出した。


「いいだろう、取引してやろう」


 わたしはほっとして、握手に応じた。しかし手を離そうとしたところで強くにぎられた。そして伯爵はわたしの瞳をのぞき込み、ゆっくり言った。


「あんた、交渉が下手だな。考えていることも全部顔に出ている。――取引に応じるのは、あんたの取引条件が気に入ったからじゃない。


 結婚を白紙に戻して<香力>が戻った途端、あんたは逃げるかもしれない。婚姻を結んで法的に拘束しておいた方がいい。


 併せて、エルダー・バーシュに対する何かの手を打てば確実だろうな」


 本当に見抜かれているのか、脅しなのか判断付かない。


「だが、大貴族の姫君のくせに、誰かに頼らず自分で切り抜けようとするところが面白いから、遊びに付き合ってやろう。俺の気が変わったら取引は中止だ。しっかり役に立て」


 その日の夜、わたしは部屋に来た父に伯爵の申し出を承知する、と伝えた。父は無言だったが満足そうな表情を浮かべていた。



 あの後、スプルース伯爵ととわたしは、もう少し細かい事を決めた。

 

 わたしが<香力>が戻った後も約束を守るかどうか分からないから、ひとまず婚約という形で法的に拘束されることになった。比較的簡単に破棄出来るので結婚よりはましだし、例え今後父の気が変わったとしても、伯爵の同意なしでは動けないので、わたしにとっても悪いことではない。父には、もちろん取り決めの事は言わず、結婚の準備期間ということになっている。


 翌日ミネオラが会いに来た。


 なぜ父がミネオラを屋敷に入れる許可を出したのか分からなかったけれど、会えるのは嬉しい。


 居間に入るなり、ミネオラが「会いたかった」と抱きついてきた。草原と柑橘が混ざる香りを懐かしく感じる。まだ10日ほどしか経っていないのに、もう何年も前のように感じた。


「あなたの幸せな話に水を差すようなことをして、ごめんなさい。みなさんを、嫌な気持ちにさせてしまったでしょう」


 まずは、迷惑をかけてしまったことを謝ったが、それには答えずミネオラが部屋の隅に控えている使用人に目をやるのが分かった。わたしは使用人に命じる。


「出ていきなさい」


 使用人が迷うそぶりを見せた。父から目を離さないよう言い含められているのだろう。


「出ていきなさい、と言ったの。逃げられないのは分かっているでしょう」


 使用人が不満そうな顔で出ていく。


「逃げられない?」


 ミネオラが、青白い顔でわたしに聞く。


「そう。逃げ出せないよう<香力>を使えないようにされているの」

「<香力>が使えないの?」

「そういう薬があるんですって。知らなかったから、この屋敷でお茶も飲んだし食事もしてしまったわ」


 言葉を失ってうつむくミネオラを、長椅子に座らせた。離れたくなくて、わたしも隣に座る。


「バーシュ家のみなさまは、変わりなく元気?」


 でもミネオラは答えず泣きそうな顔で、わたしにすがりついた。


「スプルース伯爵との結婚を受け入れたって本当?」


 お父様がミネオラを家に入れた理由が分かった。わたしの口から直接、言わせたかったのだろう。


「お兄様、さっき突然帰ってきて部屋に閉じこもってしまったの。中から大きな音もするのに、絶対に誰も入れてくれなくて。あんなお兄様初めてで、バードにもどうにもできないって。扉越しに何とか教えてもらえたのは『ピオニィがスプルース伯爵との結婚を承知した』ってことだけ。そんなはずないと思って、直接聞きたくてここに来たの。でも、今までずっと会えなかったのに、今日は会わせてもらえて⋯⋯。違うでしょう? 結婚するなんて言ってないんでしょう?」


 恐らくエルダー様は、わたしがバーシュ邸に戻れるよう動いていて、それが目障りな父は、邪魔を止めさせるため、わたしの意思だという事を伝えたのだろう。


 エルダー様を思い出すと泣きたくなる。わたしは胸元をぎゅっと握った。


「ミネオラ、わたしは自分でスプルース領に行くと決めたの。だからもう心配しないで。エルダー様と、ミネオラと、バーシュ邸のみんなと過ごした時間は本当に楽しかった。生涯忘れることはないと思う。本当にありがとう」

「どうして、何でそんなお別れみたいな事を⋯⋯」


 ミネオラが、胸元のわたしの腕に目を留め、手を伸ばす。


「ピオニィ、なにこれ!」


 慌ててミネオラにつかまれた腕を戻そうとするが、その前に袖をまくられてしまう。腕には伯爵に乱暴につかまれた時に出来たあざがくっきり残っている。隠していたつもりだったけれど、袖口から見えてしまったようだ。


「暴力をふるわれたの?」


 ミネオラの目から涙がこぼれる。


「違うわ、ミネオラ」


 わたしは、ミネオラの手をしっかり握りしめる。


「大丈夫。わたしは脅されて言いなりになって行くわけじゃない。自由になるために、まだ戦っているの」


 ミネオラの顔が涙でくしゃくしゃになっている。


「わたしの支えになっているのは、バーシュ邸で過ごした思い出なの。ミネオラは、わたしに出来たかけがえのない大好きな友達。⋯⋯会えなくなっても、友達だと思っていて、いいでしょう?」

「当り前じゃない! 私にとっても、ピオニィは大切なかけがえのない友達よ。会えなくなるなんて言わないで!」


 わたしをぎゅうっと抱きしめてくれる。


「ありがとう。いまの言葉をわたしのお守りにする」


 わたしもミネオラをぎゅうっと抱きしめ返して、彼女の草原と柑橘の涼やかな香りを胸いっぱいに吸い込む。


「エルダー様にも伝えてくれる? わたしは負けてないし自由になることをあきらめていない。王宮の時には逃げるしかなかったけど、心を温めてもらって強くしてもらえたから戦えるの。本当に感謝してる。図書室で過ごした楽しかった時間も、絶対に忘れない」


 泣き続けるミネオラの涙を、ハンカチでぬぐってあげた。


「来てくれて、ありがとう。行く前に会えて良かった。さようなら」


 あまり長くふたりきりでいると、使用人が父に部屋を追い出されたと言いつけるかもしれない。ミネオラは名残惜しそうに帰っていった。


 ミネオラに会って、エルダー様やバーシュ邸から離れる覚悟が出来た。気持ちに区切りをつけることが出来た。


 もともと、バーシュ邸にずっといるわけにはいかなかったのだ。エルダー様は家族を守ると言ってくれたが、実際には家族ではなかった。それならなおさら、これ以上の迷惑はかけられない。


 わたしは、ちゃんと戦える。伯爵との取引き通りに仕事をして自由を得る。


 そう、わたしは仕事をしにスプルース領に行く。

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