近衛隊長からの要請

 街の向こうに濃紺の水と水平線が見える。太陽が落ちはじめ、空と海が少しずつ赤く染まる。


 草原の香り、草や花の香りが混ざった爽やかな香りを感じる。その香りをもっと感じたい、そう思って振り返ると夕日に染まる街が目の前に広がっていた。王宮から図書館まで、みんな赤く染まって絵画のように美しい。


 街の人たちが、慌ただしく動いている。


 店じまいをする人、これから店を開ける人。連れだってどこかへ行く人たち。賑やかな声まで聞こえてきそうだ。


 懐かしい大好きな香りなのに、胸が痛くなるのはなぜだろう。会いたい、と思うのに誰に会いたいのか分からない。



 騎士に勝った高揚感で浮足立っている兵士たちをイシル様は厳しくたしなめ、やがて城は日常を取り戻していった。


 しかしそれもつかの間のことで、評判は風のように伝わり領地の外からも入隊や訓練の希望者があふれんばかりに押し寄せるようになった。あっという間に兵士たちは、その対応に追われるようになった。


 イシル様も同様に多忙を極め、滅多に顔を見かける事がなくなった。フランカの方はアベル様たちが去ったことで落ち着きを取り戻し、いつもの日常に戻っている。


 わたしは、隊長、副隊長、グリュートと共に、森や浜辺に新しい訓練場を作った。兵が増えたなら、訓練場も新たに作らなければならない。とはいえ、数人の<香力>を集めて強い力にする方法が上手く行くようになり、わたしの助けがなくても、訓練場の整備が進むようになってきている。


 もう、わたしの役目は終わったと思う。


 わたしはフランカとふたりで庭を散歩していた。イシル様が庭師に命じて花を増やしてくれたので、わたしたちは散歩中に新しく咲いた花を見つけるのを楽しみにしている。


「ピオニィは、どうしていつも眠っている時に泣いているの?」

「泣いている?」

「そう、いつも泣いているの。お仕事忙しくて疲れてるんだと思って、お父様に聞いてみたら『会いたい人に会えないからじゃないか』って言ってた。そうなの?」


 起きた時に心が苦しいような、体が寝台にそのまま沈み込んでしまいそうな気分になる事はある。そんな時に頬が湿っているのは夢の中で泣いていたからだったのか。


(会いたい人に会えないから)


「私もお母さまに会いたくて泣いちゃうことがあるの。ピオニィの会いたい人も死んでしまったの?」


 フランカが真剣に尋ねてくる。


「いいえ、生きているわ」


 誰かを思い浮かべそうになり、急いで頭から追い払う。


「なら、いつか会えるわね」


 フランカがにっこり笑う。


 その晩、フランカは久しぶりに自分の部屋に戻った。フランカがいないととても静かだ。窓を開けて風を入れようとしてバルコニーにイシル様がいることに気づいた。お会いするのは久しぶりだ。


 上着を羽織ってバルコニーに出ると、イシル様はわたしを見てほほ笑んだ。


「話したいことがある」

「はい」


 ちょうどいい。わたしも話せる機会を待っていた。


「近衛隊長から正式に、騎士を受け入れて訓練させて欲しいという要請が来た」

「おめでとうございます!」


 イシル様の願いが叶った。これで、隣国からの脅威への備えになる。


「俺は、あんたの働きに満足した」

「え?」


(いま何と)


「あんたの働きに満足した、と言ったんだ」

「取り決めの⋯⋯」

「そうだ、取り決めの終了だ。これであんたは自由だ」

「言って頂けないかと、思っていました」


 イシル様は苦笑する。


「言いたくはなかった。だが約束だ。あんたは<香力>が復活した後は、本気になれば逃げられたのに約束を守った。だから俺も約束は守る」

「ありがとうございます」

「もともと、俺にしか得がない取引だったんだ。礼を言うのは俺の方だ。本当に世話になった。ありがとう」


 イシル様はこちらを向き、居住まいを正した。


「それで、この前の返事を聞かせてもらえないか」


 ここに残って欲しい、というあのお願いのことだ。わたしは深呼吸をする。


「ここには、残れません」

「理由を聞いてもいいか」

「⋯⋯わたしは、イシル様のことを尊敬しています。好意もあります。でもそれは、バーノルド先生に対する思いと同じです。イシル様がおっしゃって下さったような愛とは違うと思います。だから、イシル様の妻にはなれません」


 イシル様が辛そうに眉をしかめた。


「妻としての役割は求めないと言っても無駄か? 今と変わらず、ここにいてくれればいい、それでも駄目か?」


 気持ちが揺れそうになる。でも、先生の葉書を思い出す。


「イシル様、わたし外国に行くことに決めたんです。そこならきっと、父の手も届かない」

「外国?」


 予想通りイシル様が驚いている。交渉では勝てないけれど、意表をつくことは出来たみたいだ。私は手に持っていた、先生の葉書を差し出して文面を見せた。


『ザルカディア語の勉強は進んでいるか? 怠けていると、あっという間にトマに追い抜かされるよ』


「これは、先生からの助け舟だったんです」


 わたしが一番得意な外国語はザルカディア語で、もう勉強の必要はない。当然先生もそのことを知っている。そして、トマはザルカディア語の勉強はしていないはずだ。先生はザルカディア国にいて、詳しい場所はトマが知っていると言ってくれているのだ。


 誰が見るか、わたしがどんな状況か分からないから、こういう言い方で助け舟を出してくれた。


 説明すると、イシル様はかなわないな、と言った。


「あんたの先生に、会ってみたかった」


 わたしが躊躇なく頼れる人は先生しかいない。先生はそのことをちゃんと分かっていて、苦しくなった時に全てを投げ出せるよう逃げ道を作る、という一番必要な手助けをしてくれたのだ。


「分かった」


 イシル様は息をついて、ベンチに座った。わたしも隣に座る。


「俺はずるいから、大事なことをあんたに言っていない」


(大事なこと?)


「あんたの父のことは、もう心配しなくていい。ユーフォルビア侯爵は投獄された」

「投獄ですか?!」

「国王に対する反逆の罪に問われて有罪になった」


 権力に執着していることは知っていたが、まさか反逆まで考えていたというのか。


「侯爵の嫡男、あんたの兄が告発したことで侯爵家自体は罪を許され、侯爵⋯⋯いやもう元侯爵だな、あんたの父親だけの罪ということになった。だからもう、あんたは父親に怯える必要はない」


 嫡男の兄というと、バーノルド先生の友人の兄のことだろう。イシル様との婚約を破棄すると、わたしの今後の命運を握るのはその兄ということになる。情けをかけてくれた兄だから、父のようなことはしないだろうか。


「糸を引いたのはエルダー・バーシュだ。あんたの兄を説得し、国王を動かした。決め手の証拠が足りない分については、俺のところに頼みに来た。アベル・オークリーがここに来た本当の目的は、その交渉で対戦はついでだったんだ」


(エルダー様が――)


「俺は、あんたとの事を侯爵と交渉したが、はなから条件を飲むつもりはなかった。だから、侯爵が声高に約定違反を糾弾出来ないような細工しておいた。侯爵は俺の出した条件が、よほど気に入ったのだろう。気づかずに署名したのが運の尽きだな。その細工をエルダー・バーシュが利用した」


 確かに、わたしとの婚姻が成立した後、父との約束を反故にすると言っていた。こういうことだったのか。


「イシル様、ずいぶんな策士だったのですね」


 わたしがイシル様との交渉で勝てるわけがないはずだ。イシル様が愉快そうに笑った。


「これで、あんたを殺してフランカを悲しませる必要が無くなっただろう」


 わたしを死んだことにして欲しい、というお願いのことだ。わたしは立ち上がって、深く頭を下げた。


「本当にありがとうございます」

「この話を聞いても考えが変わらないか」


 エルダー様の所に戻らないのか、そう聞いているのだろう。


「変わりません。先生のところに行って、それから自分の足で立つ努力をします」


「そうか」


 イシル様も立ち上がる。


「10日後に、あんたの兄が来ることになっている。一緒に王都に帰るといい。王都に帰って兄の所で休んでから、もう一度外国に行くのか考えろ。フランカには、俺から話すから心配するな」


 そしてわたしを、しばらく見つめてから抱きしめた。イシル様の樹木の香りを感じる。


「あんたが大切だから行かせる。でも、俺を選んで欲しかった」


 耳元でつぶやき、強く力を込められた。ぬくもりと鼓動を感じる。しばらくして身を離すと、イシル様はそのまま何も言わず振り返りもせずに部屋に戻っていった。

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