取り決めの変更
最近、フランカに外国語を教えている。
兵士は自分たちだけでも訓練が出来るようになってきた。兵士以外にも、領内から<香力>を持つ平民を雇い入れているそうだ。わたしは一日のうち何度か顔を出して訓練場を整えたり、大きな力で全体を訓練している。
余った時間でフランカと遊ぶ。イシル様のお仕事の手伝いもする。最近のイシル様は得意なはずのルービン語の書類すら、わたしに処理させることがある。毎日遅くまでお仕事されているようなので、少しでもフランカと遊ぶ時間を作ってあげたい。だから文句を言わずに手伝っている。
本当は『婚約者』として社交にも対応して欲しいらしいけど、それはお断りさせて頂いた。社交は好きではないし、わたしは本当の婚約者ではないのに、その肩書で人と接するのは気おくれする。幸い、わたしが兵士の訓練に熱心な事は広まっているので、城内の人たちは『そういう人なんだ』と受け入れてくれているようだ。
フランカは、わたしのことを『ここに住み着いているお姉さん』と認識しているようだ。お母さんになるとは思っていないようで、安心している。
われながら、よく働いていると思う。ここに置いて世話をしてもらっている以上の働きは出来ていると思う。
ここに来て、どれくらい経つだろう。秋が過ぎ、冬が過ぎ、もうすぐ春を迎える。ここでの生活が自然になっていて、王都に帰ることはあまり考えなくなった。――これだけ経つと、もう、エルダー様も、ミネオラも、エマたちもみんな、わたしの事を忘れてしまったのではないかと思う。
今朝、起きたら頬が濡れていた。何か夢を見たのか、こういう日はしきりに王都の事が思い出されて寝付けなくなる。わたしはバルコニーに出て月を眺めた。もう寝間着の上に上着という姿で出ても寒くない。
ぼんやりと月を眺めていると、隣の部屋からイシル様が出てきた。今日は珍しく、くつろいだ服装だ。
「今日はあたたかいな」
「もう春ですね」
イシル様が隣に座る。樹木の香りが漂う。この香りを感じると安心してしまうことにも少し戸惑っている。
「今日はもう、お仕事はおしまいですか?」
「あんたが手伝ってくれるから、はかどって楽ができている」
容赦なくあれだけの書類を渡してくるのだ、楽になって当然だ。
「ひどいですね。こんなに働くとは思っていませんでした。ご褒美を頂きたいくらいですよ」
イシル様が頭の上で手を組んで月を見上げた。
「いいだろう。何が欲しい」
「え、冗談ですよ。何もいりません」
本気と受け取られるとは思わなかった。
「そうじゃないだろう、本当に交渉が下手だな。それとももう、王都に帰る気はなくなったのか?」
軽い口調とは反対に、目が真剣だ。
「前から交渉が下手とおっしゃいますが、どこが下手か教えて頂けないので学ぶことができません」
「王都に帰る条件に『俺が満足したら』と言っただろう」
今日は教えてくれるつもりらしい。わたしはイシル様の方に向き直って真剣に聞く。
「あれは最悪だ。俺は満足しても、満足していないと言い続ければいい。いつまでたっても、あんたは帰れない」
「満足しても、そう言わないですか?」
「利用価値があったら、言わないな」
それは、ずるい。
「では、どういう条件にすれば良かったですか?」
「それを教えたら変えたいと言うだろう。教えられない」
結局教えてもらえないのか。脱力してベンチの背に体重を預けた。
「もう一度聞くが、もう王都に帰る気はなくなったのか?」
さりげなさを装っているが、声に緊張を感じる。
「あります。――やっぱり、ご褒美のことお願いしてもいいでしょうか」
「なんだ?」
「わたしを、死んだ事にして頂けないでしょうか」
「どういうことだ」
イシル様が、体をこちらに向ける。
「病気とか、事故とか⋯⋯。出来れば死体がなくても不自然ではない死に方がいいです」
イシル様の顔は見ないようにして続ける。
「もしイシル様がわたしの働きに満足して、王都に帰してくださるとしたら、婚約を破棄したら、わたしはユーフォルビア侯爵の娘に戻ります。でも、わたしはもう閉じ込められたり、どこかに売られたりしたくないのです。
今までは幸運でした。国王陛下もバーシュ様も心ある方でした。イシル様も、わたしに良くして下さっています。でも、次は分かりません。
だから父にはもう、わたしはいなくなったと思ってもらいたいのです」
ずっと考えていたことだった。イシル様にお願いするか、こっそり失踪するか、迷っていた。
失踪を選んだ場合、イシル様は、もう<香力>を必要としなかったとしても、わたしを探すような気がした。もしかしたら悲しむかもしれない。最近のわたしたちには、そのくらいの心の交流が生まれている気がしていた。
イシル様は膝の上に肘をつきうなだれた。深いため息をつく。
「それでは、バーシュの所に戻れないだろう。あんたは、バーシュの所に帰りたいんだと思っていた」
エルダー様。帰りたい、帰りたいに決まっている。バーシュ邸での思い出は、わたしの心のお守りだ。でも。
「バーシュ様のところには帰りません。父はバーシュ様が受け継ぐ領土を狙っています。
自分に都合よくわたしを操ろうとしていましたけど、わたしは、父の言う通りに動くつもりはなかったので、その点でご迷惑はお掛けしないと思っていました。
でも今、わたしがバーシュ様のところに帰りたいと言ったら、父はどんな条件を出すでしょうか。
陛下と離婚した後、わたしは嫁ぎたくなくて、王宮から逃げ出そうとしました。バーシュ様は、わたしを気の毒に思って居場所を作って父からかくまってくれました。とても優しい方なので、お願いしたら無理をされるかもしれません。そんなお願いはしたくない」
深呼吸をする。
「だから、わたしを死んだことにしてください。<香力>を使わなくても、外国語を使って街で働くことが出来るんです。わたし、こう見えても街のお店で働いた事があるんですよ。ちゃんと誰にも頼らず、自分で生きていけると思います。
もし、わたしの働きがご褒美に値すると思って頂けたのなら、お願いします」
わたしは立ち上がってイシル様の前に立ち、深く頭を下げた。イシル様は黙ったまま立ち上がり、わたしの肩に手をあてて頭を上げさせた。肩に置いたままの手から、ぬくもりが伝わってくる。
しばらくの無言の後、ゆっくりと口を開いた。
「ここに、このままここにいる、という考えは無いのか」
考えた事はある。でも。
「イシル様は、父とどんな取り決めをされましたか? 父がわたしをバーシュ様の所に置いておくより得だと思う、何か条件を決められたでしょう。父は、外国の力を欲しがっているので、隣国がらみでしょうか」
「⋯⋯そうだ。<香力>で兵力を増強し、もしルービンが侵略してきたら、逆に攻め込んで領土を広げる。その半分を侯爵に渡すことになっている」
やはり、そんなところだと思った。
「イシル様はルービンの領土まで欲しいと思われていますか?」
イシル様は何も言わない。それが答えだ。ルービンの領土は望んでいない。
「目的を果たした後に残れば、わたしは重荷にしかなりません。わたしを死んだことにすれば、父との約束を反故にしても問題ないでしょう」
わたしの肩をつかむ手に、ぐっと力がこもった。
「重荷ではない。正式に婚姻を整えてしまえば、もう侯爵はあんたに手を出せない。俺が約束を反故にしたところで侯爵に何が出来る。あんたは侯爵の言うことなんて聞かないだろう」
「聞きません! 聞かないけど、父が次はどんな手を使ってくるか怯えて過ごすことになります。バーシュ様が嫌な思いをされたように、今度はイシル様が嫌な思いをしてしまう。わたしを気の毒に思って優しくしてくれたのに。
わたしはもう、誰かに怯えたり、申し訳ないと思いながら過ごしたくない」
我慢できなくて、涙があふれてきてしまった。
「泣くな」
イシル様が困ったように服の袖でわたしの涙をぬぐった。俯いたわたしの両ほほを手のひらで包んで顔を上げさせる。
真剣な薄紫色の瞳が、わたしの目をとらえる。
「ここにいて欲しい。俺は、あんたと一緒にいたい。同情して優しくしているわけではない。役にたつからでもない。
俺はあんたを愛している」
「あ、愛?」
あまりに思いがけない言葉が出てきて思考がとまる。イシル様はわたしの頬を包んだまま顔を近づけてきた。そのまま、額にそっと口づけをされた。
「俺のことが嫌いか? こういう振る舞いは我慢ならないか?」
分からない、分からない。一気に顔に血が上る。心臓の鼓動が強すぎて破裂しそうだ。
イシル様がもう一度、今度は唇に口づけた。唇から熱が伝わってくる。間近に見える瞳がうるんで、ゆらめいている。今までないくらい、強く樹木の香りを感じる。
耳元でささやかれた。
「取り決めは全て無しにしたい。<香力>を使いたくなければ使わなくていい。仕事の手伝いもしなくていい。フランカのことは、たまに気にかけてやって欲しいが強いたりはしない。ただ、俺と一緒にいて欲しいだけだ。俺の妻になって欲しい」
強く強く抱きしめられた。イシル様の強い鼓動を感じる。嫌悪感はない。わたしも、イシル様を愛しているのだろうか。
しばらくしてイシル様は体を離した。わたしが混乱している様子を見て切なそうな顔でほほ笑む。樹木の香りと花の香りが混ざり合って辺りに広がった。
「急がないから、考えてくれ」
そう言うと、わたしを立ち上がらせて部屋に戻した。
「風邪をひく前に、ちゃんと眠れ」
わたしの頭の中を色々な想いが巡り、眠れなかった。
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