見える景色

 馬車には、わたしと兄しか乗っていない。兄は顔だちも話し方も、何もかも父に似ていない。やわらかく穏やかな雰囲気はバーノルド先生とそっくりで、二人が友人ということが自然と納得できる。


「僕たちは、初対面ではないけれど、初めて話すようなものだね」


 にっこりと笑って話しかけてくれた。この兄がバーノルド先生を紹介してくれたから今のわたしがいる。


 わたしは、これまでのこと、今回の事を心から感謝してお礼を伝えた。でも兄は悲しそうな顔をした。


「僕は、君のお母さんが辛い目に遭っていることを知っていたのに目を背けた。これはその贖罪だ」


 兄も父の振る舞いに色々傷つけられてきたのだと思う。陛下のお目こぼしがあったとはいえ、大罪人を出した家を継ぐのだ。これからも苦労されることだろう。


「これだけ大人数いる兄弟姉妹の長男だよ。へこたれている暇はないさ」


 ゆったりと笑う。金木犀のような花の香りは、少しわたしの香りに近いかもしれない。


 長旅の間に、少しずつお互いの話をした。バーノルド先生の学生時代の話も聞かせて頂いた。次に先生に会った時に、笑ってしまわないようにしなければならない。


 王都に着いてからのことは、改めて相談することになっている。もう誰とも結婚したくないという意志だけは兄に伝えた。


 スプルース領にいる間に、兄を経由してエルダー様から何度か連絡を頂いた。最初は『バーシュ邸に戻ってきて欲しい』というお話で、これまでのお礼と共に丁寧にお断りさせて頂く返事をした。続いて王都に戻ってから屋敷を訪問したいとの打診があったが、それもお断りさせて頂いた。


 エルダー様には直接お礼を伝えるべきだけど、わたしには会う勇気がない。法的には全く関係がない他人なのだから二度と迷惑をかけたくない。兄から、侯爵家としてのお礼はちゃんと考えてあるから問題ないと聞いている。


 神殿での婚姻はどう扱われているのだろう、それだけが少し気になったが、イシル様との婚約も支障なく成り立っていたのだから問題ないのだろう。


 穏やかな馬車の旅が続き、いよいよ王都に到着する。



 今日は父に持たされた宝石を、さりげなく何個か身に着けている。高価ではないけれど、街でしばらく暮らすには困らない金額で売れるはずだ。わたしにと買い与えられたのだ。自由にしても良いだろう。服装も手持ちから一番目立たない簡素なものを選んだ。


 王都に一番近い街で休憩のために止まった時を狙い、わたしはお手洗いに行くふりをして馬車から離れた。


 兄も従者ものんびりくつろいでいて、わたしが離れた事に気づいた様子はない。心の中で詫びながら急いで歩き、王都に向かった。


 兄が向かっているのは王都にある父の屋敷。スプルース領に行く前に閉じ込められたあの屋敷だ。<香力>を使えなくなった時のことを思い出す。兄はそんなことをしないと信じているが、それでも絶対にあの屋敷には足を踏み入れたくない。


 急いだおかげで、日が落ちる前に王都に入ることが出来た。街並みも行き交う人たちの空気も記憶の通りだ。土ぼこりと、食べ物と、香辛料の香りが入り混じった王都らしい匂いがする。懐かしいけれど森に慣れた今では、人の多さで歩きにくく感じてしまう。


 先生の居場所を聞くために、トマのお店に向かわなければならない。


(トマに何て言おうかな)


 家出をしてきたと言ったら、すんなり信じてくれそうな気がする。


 でも、その前にどうしても立ち寄りたいところがある。ずっと、ずっと心から離れなかった場所。記憶を頼りに道を進んだ。


「あった!」


 王立学校の外れに立つ古びた物見の塔。スプルース領で夕焼けを見るたびに、エルダー様と塔から眺めた景色を思い出していた。あの景色をもう一度見たいと思っていた。


 エルダー様の真似をして鍵がかかっていない扉を開けた。<香力>は使わないで、あの時みたいに1段ずつ階段を登る。頂上まであと数段を残したところで、草や花の香りが混ざった爽やかな香りに気が付いた。


 視線を走らせると、手すりに腕を預けて景色を眺める黒い影が見えた。


 心臓が早鐘を打つ。


『どうしてここに』と『やっぱり』が入り混じる。このエルダー様のお気に入りの場所に立ち寄ろうと思ったのは、心のどこかに会いたい気持ちがあったからかもしれない。


 逆光の中で影が動く。顔だけこちらを振り返ったようだ。


「久しぶりだね」


 懐かしいエルダー様の声が耳に入ったとたん、心の中にしまっていた想いがあふれ出て来て泣きそうになる。声がふるえないように注意して慎重に声を出した。


「お久しぶりです」


 階段を登り切ったところで足を動かせなくなった。心臓の鼓動がますます強くなる。


「父の事、ありがとうございました」


 深く頭を下げた。そのまま頭を上げる勇気を出せなくて床を見つめる。


(会いたかった)


 口から出てしまいそうになるのを必死にこらえる。


「前にここから夕焼けを見た時も、今くらいの季節だったね」


 トマのお店からの帰り道。そういえば今と同じ春の終わりごろだった。


 風が通り過ぎていく。


 頭を上げるとエルダー様は王宮の方を向いているようだった。逆光で表情は見えない。


 わたしはエルダー様からすこし離れたところに立ち、塔からの眺めに目を向けた。広がる街並みは傾きかけた日を浴びて、物憂げな色合いを帯びている。王宮も図書館も、記憶のまま何も変わらない。


「センセイのところに行くの?」


 景色の方に顔を向けたまま、エルダー様が問う。エルダー様にも先生の葉書の意味が分かったのだろう。


「はい、そのつもりです」


 わたしは静かに答える。


「僕には、⋯⋯分からないんだ」


 声がすこしかすれている。


「御父上のことを解決したら帰ってきてくれると思った。もしスプルースから戻らないなら、僕が会いに行こうと思った。でも――」


 エルダー様がこちらを振り向く。


「センセイのもとに行く、というのをどう止めたらいいか分からない。僕はどうしたら君に頼ってもらえる? 僕には何が足りない? 教えてくれないか」


 やっと見えた顔は、眉根を寄せてとても苦しそうだった。エルダー様がこぶしを握りしめている。


 何を答えればいいのだろう。何を伝えればいいのだろう。考えても分からない。無理やり言葉を押し出す。


「最初に王宮でお会いした時に『家においで』って言って頂いて、家族として過ごした日々は本当に幸せでした。でも、本当の家族じゃないことは、ちゃんと分かっているので頼らないように頑張っています。先生にも、ずっと頼ったままでいるつもりはありません。最初だけ手助けして頂くかもしれませんが⋯⋯」


「なんでだよ!」


 エルダー様が怒ったような顔で、溜め込んだ何かを吐き出すように言う。


「幸せだったなら、戻ってくればいいじゃないか。婚姻が成立していなかった事ならどうにかする。そうしたら法的に『家族』だ。それなら頼ってくれる?


 違うだろう? 君が僕を頼らないのも、戻ってこないのも、理由が他にあるんだろう? それが何か、僕には分からない!」


 聞かないで欲しい。わたしの心の底にある、醜い気持ち。知られたくない気持ち。


「言ってくれないと、僕はあきらめられない。⋯⋯君はセンセイを愛しているの?」

「それは違います!」


 わたしの臆病さが責任感の強いエルダー様を苦しめている。一度『家族』と言った以上は責任を持つべきだと思っているのだろう。逃げてはいけない、最後くらい誠実にならなければならない。勇気を振り絞る。


「し、幸せを願えないから」


 言葉と一緒に我慢していた涙があふれ出てきてしまった。ちゃんと話せるよう、呼吸を整えなければいけない。服の胸元をぎゅっと握りしめる。


「わたしが、あなたの幸せを願えないから。あんなに、あんなに家族として大事にしてもらったのに」


 どうしても声が震えてしまう。怖くてエルダー様の顔を見れない。


「妹のように、って言って頂いたのに。わたしは――」


 苦しい。胸が押しつぶされそうだ。


「恋をしてしまったから。あなたが本当の奥さまを迎える事になったら、わたしは喜べません。ミネオラも、トマの妹さんも、みんな妹は兄の幸せを願うのに。こんな醜い気持ちを持っていて、家族とは言えません。


 早く出て行かなければならないのに、あの家が大好きで自分から離れることはできませんでした。⋯⋯だから、あんな形で連れ出されて、ちょうど良かったのです」


 全て言ってしまった。


 イシル様にもバーシュ家に戻らない事について色々と言い訳をしたけど、本当は怖かったのだ。エルダー様が誰かを選ぶことが。戻ってしまったら、もう二度と離れる勇気を出せないことが。


 先生が用意してくれた逃げ道にすがる方が楽だった。


 きっとわたしは嫌な顔をしている。自分が恥ずかしい。見られたくなくて、エルダー様に背を向けた。


「会いたかった、帰りたかった、頼りたかった。でも、そう思ってはいけないから我慢しました。わたしは、⋯⋯遠くに行って全部忘れたい」


 涙が止まらない。消えていなくなってしまいたい。


 草原の香りを強く感じる、と思ったら、後ろから抱きしめられた。


「⋯⋯そんな事を思っていたなんて、知らなかった」


 エルダー様の強く早い鼓動を感じる。肩に回された腕と、こめかみに押しつけられた頬から熱が伝わってくる。


(泣いている⋯⋯?)


 痛いくらいに腕の力が強まる。なぜエルダー様が泣くのか。しばらく混乱していると、エルダー様が口を開いた。


「ごめん、僕が間違っていた。一番大事なことを君に伝えていなかった」


 一言ずつ、ゆっくりと言う。


「僕たちの『最初』は儀式の日じゃないよ。王宮の図書室だ。僕は君の事をずっと、ずっと好きだったんだ。図書室で最初に会った時から」

「図書室⋯⋯?」

「王宮の図書室で君を好きになって、もう一度会いたくて、あの後ずいぶん探したんだ。でも見つけられなかった。陛下から結婚話が出た時に一度は諦めた。それなのに、その結婚相手が、散々探していた君だったんだ。生涯の幸運を全て使ってしまったと思うくらい嬉しかった」


 日が落ち始め、辺りが赤く染まり始める。


「僕はあの時、逃げる君を引き留めるのに必死だった。だから『妹として』なんて言ってしまったけど、本当はずっと女性として好きだった」


 エルダー様が体を離し、わたしを自分の方に向かせて手をのばした。エルダー様の涙でうるんだ真剣な瞳がわたしをしっかり捕らえた。わたしの頬をつつむ手のひらが温かい。


「僕は君の事を愛している。誰がどんな邪魔をしても、何があっても僕は君と一緒にいたい」


(わたしを選んでくれていた。妹じゃなくてもいいんだ)


 思わず、エルダー様にぎゅっと抱きついた。エルダー様が腕を背中にまわして強く抱きしめてくれた。


「わたしも⋯⋯わたしも、エルダー様のことを愛しています。わたしもエルダー様と一緒にいたいです」


 エルダー様がわたしの顔をのぞきこもうとする。わたしは見られたくなくて、ますますぎゅっと抱きついた。


 しばらくの攻防の末、エルダー様は苦笑したようだった。わたしの頭をなでて、耳元でささやく。


「僕と、もう一度結婚してくれる?」

「――はい」


 きっとわたしの顔は真っ赤だろう。涙は止まったけれど、ひどい顔をしているに違いない。エルダー様が、またわたしの顔をのぞきこもうとするけど、わたしは離れない。


「ほら、日が落ち始めたよ」


 体を離して振り返ると、街が赤く染まっていた。絵画のように美しい景色。わたしの花の香りと、エルダー様の草原の香りが混ざり合って辺りに漂っている。


「やっと顔を見せてくれた」


 せめて涙をぬぐおうとハンカチを探していたら、両頬を手で包まれた。片手が後頭部に回されると、優しい瞳が近づき、そっと口づけられた。


 触れた唇が熱い。全身が心臓になったかのようにドキドキする。頭に血が上りすぎてくらくらしてくる。


 唇が離れると、もう一度きつく抱きしめられた。


「さ、家に帰ろう」


 懐かしい、バーシュ邸。


「みんな、僕が君を連れて帰ると信じて準備しているよ」


 わたしはエルダー様を見上げた。紺色の瞳がわたしを見ている。この人が大好きだ。


「家に、帰りましょう」

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