第十七章【過去編】「愛する人の妹とお風呂に入ってるということ」

 ◇◇◇


 とはいえお金も必用なので。由々よしよしはマッサージに関する幾つかの活動で収入を得ていた。

 週に何度か、地域のコミュニティセンターでお年寄り向けにマッサージを行ったり。あとは、マッサージのことを書いてるブログの広告収入がちょっとだけあったりする。

 収入としては微々たるものかもしれないが、彼自身で目標を設定して、達成するために日々工夫を重ねている。そのあり方は、尊敬できると思っている。

 廊下を抜けて居間にたどり着くと、由々の妹ののどかがリハビリに励んでいた。

 車椅子のままでできる運動もある。和はてのひらと掌を合わせて、手首をくるくると回していた。


「あ、愛姫子あきこさん、こんにちは」

「こんにちは、和」


 和も現在は学校に行っていない。

 大魔との戦いで足が動かなくなった和を、当時、まずは様々な病院に連れて行ったが、原因は分からなかった。

 由々は予想していたようだが、和が浴びた大魔の呪いは、現代の医学や科学とは、位相が異なる類のものであるという。

 その後、車椅子で通う学校に一時入ったのだが、長くは続かなかった。

 人間関係などが上手く行かなかったのだろうかと推測し、それとなく話題を振ってみたのだが、その時、和は「それよりもやりたいことがある」という趣旨のことを言っていた。

 以来、和が自宅で何をやっているのかというと、魔術的な思索にふけっている。

 もともと和は聡明で博識な女子であり、幼い頃から本もたくさん読んでいた。現在、その方向性がバージョンアップしたというか、ちょっと愛姫子にはすぐには理解できないような、神話学、脳科学、心理学、言語学、そして魔術……そういった重厚で難解な蔵書で、現在の彼女の部屋は埋まっている。

 愛姫子は、あんず色のコートを床に置いた。


「なんか、雪になりそう」

「三月に降る雪か、まあ、これまでもあったことではあるね」

「お兄ちゃんの小学校の入学式の日が、四月なのに雪だったよ」

「よく覚えてるな」

「印象に残ってる。お兄ちゃんが行っちゃうのが寂しかった感情と、結びついている光景なんだ」

「和はその頃からお兄ちゃんっ子だったのね」


 愛姫子が由々の存在を認識したのは、小学校一年生の夏だったので、入学式の時点では由々のことも和のことも知らないのだ。

 愛姫子は話に一区切りつけて、立ち上がった。


「じゃ、お湯入れてくるね」


 そろそろ、準備を始める頃合いだろう。

 大城家のお風呂場に向かう。掃除は、前もって由々がやってくれているのが常だった。

 そう。こうして愛姫子が定期的に大城家を訪れているのは、一人ではお風呂に入るのが難しい和の、入浴の介助を行うためであった。


 ◇◇◇


 愛姫子から見ても、和は兄を敬愛する気持ちが強い女の子だと思う。

 それゆえか、足が不自由になってからの生活の手伝いの、かなりの部分を由々に任せている。

 そんな和であったが、お風呂の介助だけは、由々よりも母を希望した。

 家族だし、絶対嫌だってほどではないのかもしれないが、心情としては分かる。同性の母の方がよいのであろう。

 一方、由々たちの母の衣乃いのは仕事が忙しかった。和の介助の負担が増えてくるのは、心身が心配されるところであった。

 そこで、愛姫子が申し出たのだ、和のお風呂の介助は、自分がしますと。

 愛姫子の申し出を、和は受け入れた。

 由々と衣乃も、「愛姫子なら」ということで受け入れた。

 以来、愛姫子は和の入浴の介助をしているが、率直なところ大変だと思ったことはない。子供の頃の延長線の感覚で、わりと女子同士の会話を楽しみながらお風呂の時間を過ごしていたりする。


「よっ」


 愛姫子は和の体を洗い終えると、いつも通りの手順で、和が湯船につかるまでを介助した。何箇所か愛姫子が力で和を支える必要があるが、お風呂場を改修して設置した手すりなどを使いながら、和はかなりの程度自分で湯船の底にお尻をつける体勢にまで移動できる。


「愛姫子さん、いちばん好きな属性は、なんですか?」


 その日、和は湯船に浸かると、そんな会話を愛姫子に振ってきた。

 お風呂の介助の時はいつも着ているスポーツパンツにTシャツという姿の愛姫子は、バスサイドに腰掛けながら尋ね返した。


「属性って?」

「ほら、火とか水とか、色々あるじゃないですか」


 ああ、なるほど。近年魔術的な思索に耽るようになった和だが、このお風呂タイムに愛姫子に対して、彼女の頭の中の世界観を披露することはよくあることだった。この時も愛姫子は、何か和の内面に醸成されているファンタジー世界関連の話なのだろうと理解した。


「それだったら、水かな。水に触れていると、落ち着くし」

「さすが、人魚ですね」


 確かに、それもあるのだろう。水には、故郷に帰ったような懐かしい感覚も覚える。


「和は?」

「個人的には、これだっていうのがあるんですけどね。ただ、『万物万象』です、とお答えしておきましょうか」


 万物万象。世界の全てか。そこには水──つまりは人魚の縁も含まれているのだろう。

 湯船に沈んでいる、動かなくなってしまった和の足を見やる。

 現在、愛姫子は和の足を治すのを目的に、医者になろうと目下勉強中である。

 成績は、進学校の学年でも上位だ。もともと、数学が得意だったのが功を奏している。

 大魔の呪いを受けた和の足は、現代の医学や科学では治らない。由々と和の理解に、愛姫子もおおむね同意している。

 まず前提として、現代医学や科学とは位相が異なる事象でダメージを受けてる身体を、まさに超常的な領域の力で治す方法が、実は愛姫子たちにはある。

 和が愛姫子を食べればいいのだ。

 人魚の肉を食べれば、体は治癒する。

 まるごと食べなくてもいいのだ。体のどこか一部の肉でも。

 大魔との戦いで腕が上がらなくなった由々と、足が動かなくなった和。

 愛姫子は自分を食べるように進言したが、キッパリと断られた。

 愛姫子は申し出た。自分のせいで由々と和は一生の傷を負ったのだから、自分を差し出して治るのがイイ。罪を、償いたかったのだ。

 しかし、由々と和の兄妹はその申し出を断った。

 その時、こんな会話を二人と交わした。


 ◇◇◇


 由々が言った。


「それは、『なかよし』の理念に反する。僕が一生をかけて追い求めているものだ。サムライが武士道に反することができないように、僕は『なかよし』の道に反することはできないんだ」

「私と、これからも『なかよし』でいたいってこと?」


 由々は少し困ったような顔をして。


「もちろん、仲良くしていたいと思っている。ただ、『なかよし』の道は、けっこう深いんだ」

「どういうこと?」

「何かをしてくれたから、何かをしてあげるとか、何かをしちゃったのなら、何かはしてあげないとか、そういうことではないってことだよ」

「よく、分からないわ」


 続いて、愛姫子は和に言った。

 自分を食べてと言ったのだ。木漏れ日の中だった。

 和は愛姫子の手をとると、涼しげな瞳で愛姫子を見つめて言った。


「愛姫子さん。どこかに犠牲を出しては、ダメだよ。愛する人が幸せであるように、自分は犠牲になっても構わないみたいなの、たいてい、ろくでもないことだよ」

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