第四部【過去編】「あの日、少女は何か大事なことを伝えようとしていた」

第十六章【過去編】「終わった恋と降り積もる雪」

 ◇◇◇


【この世界・分岐の日:20●●年――愛姫子、17歳の時。】


 気がつけば、空気がシンと冷えている。

 午後から、雪になるだろう。 

 淡いエメラルド色に包まれた冬の舗装路を、丈夫なブーツで踏み締めて歩く人影が一つ。あんず色のコートに身を包んだ女子、白泉しらいずみ愛姫子あきこである。

 こんな日は、雪の結晶のように温かなものに触れては消えてしまった母のことを思い出す。

 母が聞かせてくれた伝説だか神話だかが本当なのかは未だに分からないけれど。 

 高校二年生になった今、「無償の愛」など、自分にはとうてい求められるものではない。

 恋の高揚はもう手放した。愛してる人なんて、愛姫子にはもういないのだ。

 澄んだ空。そびえ立つ電柱の間に電線が引かれていて、今日も家庭に電気を送っている。

 暖かであろう家々と裏腹に、外を歩く愛姫子の体は冷えている。

 街を覆った冷気が、一つの感情を呼び起こす。


──ゆるして。赦して。いいえ、赦さないで。


 冬という季節には、毎年のことだ。

 雪はまだ降りはじめていないのに、後悔という美しい結晶が、空からとめどなく降りてくるのだ。

 シンシンと。シンシンと。

 終わった恋が。終わった愛が降り積もってゆく。

 やがて懺悔ざんげの念が優しく愛姫子の体を覆い尽くす頃。

 愛姫子のエメラルドの右目には、素朴な門が映っていた。

 門の向こうは私有地で、生活の場としての住居の他に、広い庭と剣道場があったりする。

 見知った家の敷地への、入口がここだ。

 この家に住んでいる人間に想いを馳せる。

 インターホンを押す前に、深呼吸を一つ。

 愛姫子はこの日もいつも通りに、かつてただ一人愛した人間の男・大城おおしろ由々よしよしの家に辿り着いたのだ。


 ◇◇◇


「やあ。愛姫子。相変わらず、アンニュイな感じだね」


 インターホンの向こうから、昔、愛姫子が好きだった人の声が聴こえてくる。

 恋の高揚を手放して二年が経った。もう、由々が愛姫子にとって何なのか。愛姫子には分からない。


「ストレスが多いのよ。人間社会で生きていくってことはね」

「それは、そうだね」


 門のオートロックが解除されたので、愛姫子は大城家の敷地の中へと踏み入っていく。

 門から住居までの道を歩いている間に、これまでにあったことに想いを巡らせる。

 中学の頃は、由々は剣道で全国大会優勝を有望視されるほどの成績をおさめていた。まだ左腕が上がる頃だったので、本当に強かった。

 しかし、由々は中学最後の中総体には出場しなかった。県予選の当日になって、参加をサボタージュしたのだ。

 その日の朝に、由々と交わした会話を、今でも覚えている。


 ◇◇◇


よしちゃん、どうして?」

「うちって、対魔『剣術』の家系だろ? 表の『剣道』で目立つのって、なんか違うってわけ」

「有名になれるのに?」

「そろそろタイミングだと思ってたんだ。一般社会で有名になることが、僕の動機じゃない」

「動機?」

「世界に仇なす悪を斬るためだよ。人知れずね。一般社会では、あんまり有名にならない方がいいんだ」

「由ちゃん」

「うん?」

「なんか、カッコいいかも」

「はっは。愛姫子にそう言ってもらえるなら。我が本懐であるよ」


 加えて、どうしてだろう。

 この時愛姫子は、この日由々が県予選の初戦に行かなかったのは。


──愛姫子のためだったんじゃないかと、思ったのだ。


 ◇◇◇


 由々のことが好きになっていた。

 というより、もう初めて出会った時には好きだった気がする。

 高校に上がる前に告白しようと思って、春休みに川に呼び出して人魚になった。そして、大魔が襲来したのだ。

 激闘の末由々は左腕が肩から上に上がらなくなり、「世界に仇なす悪を斬る」彼の動機を十分には全うできなくなって。

 のどかは「魔」を浴びて足が動かなくなった。

 後悔が、何度も頭の中で繰り返される。あの日エゴを出さなければ。自分のことだけ考えなければ。

 強くて暗い気持ちにむしばまれて、愛姫子の由々が好きって気持ちは、いつしか封をされてしまった。

 当たり前だ。


──こんな私に、由ちゃんを好きなんて資格はない。


 住居に辿り着くと、玄関のドアが向こうから開いた。


「やあ」


 紺の作務衣さむいを着ている由々が姿を見せて、愛姫子を家の中へと招き入れる。

 愛姫子が由々の家を訪れるのは日々の習慣なので、由々の対応は自然である。

 大魔と戦った日に多くのものが失われたが、愛姫子と由々と和の関係が全て途絶えたわけではない。あの日以来ずっと、大城兄妹に対して申し訳ないと思っている。それでも、今でもこの二人と顔を合わせると、何だかホッとする気持ちが愛姫子に湧いてくるのも確かなのだ。

 居間までの廊下を並んで歩いている間、フと愛姫子よりも少し背が高い由々の横顔を見やる。

 真面目で純朴な男子。

 しかし、世間でいうような「普通」には生きられなかった男子でもある。

 大城さんちの由々君が引きこもりだというのはご近所のおば様方の井戸端会議で、定期的に話題になっていたりする。

 しかし、愛姫子としては由々に対して引きこもりという言葉はあまり使いたくない。

 確かに、学校には行ってないし、就職もしていない男子。

 でも、彼は明朗だ。加えて頭脳明晰で、妹想い。甲斐性はあるようなないような感じだが、常に彼なりに工夫を重ねて行動しているのは尊敬できる。

 居間と併設されているキッチンの方から、すりおろした大根の香りがしてきた。由々が、薬湯の準備をしていたのだとこれまでの経験から分かる。

 由々は、何もやっていないわけじゃない。

 ありし日の、由々と和の母、衣乃いのとの会話を思い出す。


 ◇◇◇


 由々の母は、愛姫子に言った。


「由くん、漢方の先生が言ってたんだけどね」


 衣乃さんは女手一つで由々と和を育てている状態で、愛姫子からみても働き過ぎなようにみえる。体の節々に不調が現れていて、漢方の先生のところに定期的に通院している。


「由くんは間違いなく遅咲きだから、一年とか二年遅れても全然オッケーなんだって。私も何だかそんな気がするのよねえ」


 由々が学校に行っていないこと、就職もしていないことを、衣乃が糾弾するようなことはなかった。

 体が不自由な和が生活する上での様々な介助を、ほぼ由々が担当していることをかんがみているのかもしれない。

 ただ、それ以上に衣乃は由々の器のようなものに、全幅の信頼を寄せているのだ。

 愛姫子にも、その感覚はちょっと分かる。


(何か、やってくれそうな人なんだよね、由ちゃんって)

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