第五章【過去編】「失敗した告白と十万億土の大魔との戦い」

 声が出なかった。

 気がつくと、愛姫子あきこは黒い霧に覆われていた。体の自由が効かない。

 力を振り絞って振り向くと、八本の腕を持った巨大な悪魔が、愛姫子を見下ろしていた。腕の先には、鋭利な鎌がついている。

 血相を変えて、由々よしよしが川に飛び込んできた。


(そういえば今日。なんで、よしちゃんは刀を持ってきているの?)


 しかし、由々は間に合わない。

 悪魔の鎌が、無情にも愛姫子に向かって振り下ろされる。

 目を背けたくなるような、惨劇。

 白泉しらいずみ愛姫子あきこという存在は、首を切り裂かれ、頭と胴体へと分断された。


(こんな、そんなわけ、ない……)


──縁起が乱れてる。


 ◇◇◇


 胴体と切断された愛姫子の頭は水没し、水底へと落ちてゆく。

 川の流れもある。遠くへと流されていく。

 人魚であるから水の中でも呼吸はできるはずなのに、必死に口を動かしても体まで酸素が取り込まれることはない。

 そう、体とは、もう離れてしまったのだ。

 厳粛な孤立。何もない。

 このまま死ぬのだという感覚が、愛姫子には奇妙に感じられた。


 ◇◇◇


 水中でもがく愛姫子の頭が、誰かに抱きかかえられた。

 頬が空気に触れる感触で、水の中から助け出されたのだと理解する。

 水も滴るイイ男が、愛姫子の頭を掲げていた。由々だ。正面から目が合う。


(何? この男?)


 思考がまとまらない。由々は、目から涙を零していた。


「良かった。愛姫子は、『十万じゅうまん億土おくどの大魔』じゃなかったんだ」


 由々が、何に心を動かされているのか、愛姫子には分からない。


「愛姫子に川に呼び出された時、もしかしたらと思った。今日が、古文書に記された予言の日だったから」


 由々は、川の中から陸に向かって移動してゆく。


「怖かった。もし、愛姫子が『十万億土の大魔』だったとしたら、僕は愛姫子を殺さなきゃならなかったから」


 首元に、ドンという衝撃。急速に、途切れていた頭と体が調和した感覚が戻ってくるのが分かる。切断された愛姫子の頭を、由々が愛姫子の胴体と繋げたのだ。

 そう、人魚は、そう簡単には死なない。


「ぶはっ!」


 体の感覚、および思考が正常な状態へと戻ってくる。


「由ちゃん!?」

「勇気が、湧いてくるよ。僕は、愛姫子を守るために戦ってイイんだ」


 由々は、上流の川の上に浮かんでいる、先ほど愛姫子の首を切断した「魔」に対して刀を抜いて構えた。


「八つの腕を持つ大妖、とき渡りの魔王ゼネプデチカ。我が一族の宿敵。宇宙を抹殺する、『十万億土の大魔』」。


 その時、一陣の風と共に、河川敷に一人の少女が現れる。


「お兄ちゃん!」

のどか。愛姫子は、『十万億土の大魔』じゃなかった。やっぱり、別にいたんだ。決戦の時だ。全て、解放するんだ」

「分かった!」


 先程までいた上流にあらかじめ待機していたのだろうか。和は愛姫子が流された距離を、河川敷を走って追ってきたようだった。

 両手の指に、呪文が書かれた御札を複数枚挟んでいる。


「大城流裏鬼道きどう・次元陣・封の型!」


 和が札を一枚宙に放ると、大きな光の輪が現れ「十万億土の大魔」に向かって収束してゆく。黄金の輪に囲まれた大魔は、僅かに動きを鈍らせる。

 続いて、由々が刀を上段に構える。


「大城一刀流・陽の型・満月剣」


 愛姫子が初めて見る由々の剣の型だ。

 先ほどの和の御札を使った術も、これまで愛姫子に見せたことはなかった。

 由々と和、大城兄妹が「対魔の一族」であることは知っている。由々がこれまで愛姫子に「対魔の剣」の一旦を見せてくれたこともある。

 しかし、今日の二人には、明らかにこれまで愛姫子が知っていた二人とは違う、決死の覚悟がみてとれる。


(あ。それって、つまり……)


 愛姫子が理解しかけた時だった。

 由々の上段からの強力な斬撃が、川の上に浮かんでいる「十万億土の大魔」に向かって放たれる。

 由々がまとった覇気は羅刹らせつのごとくであった。大魔の上段の腕一本を切断する。

 しかし、「十万億土の大魔」は残る七本の腕を左右に広げて衝撃波を放つ。近接していた由々を、大魔の動きを鈍らせていた和の黄金の輪ごと吹き飛ばす。

 衝撃波のなんと強力なことか。周囲に波及するエネルギーで、遠方にいた和をも転倒させる。波動の残滓が、愛姫子の髪をもゆらす。

 河川敷まで飛ばされた由々は、立ち上がるやいなや、和にむかって声をあげる。


「出し惜しみは、無理だ! 例のやつ、頼む!」


 その時だ。「十万億土の大魔」の口から、暗黒の光線が放たれた。

 瞬時に反応し、身を翻して回避をはかった由々だったが、完全に避けることはできなかった。光線は由々の左肩を撃ち抜き、貫通する。

 左腕で刀を握ることができなくなった由々は、右手一本で刀を握って、なお構えた。


なんじに問う」


 「十万億土の大魔」が、由々に向かって言葉を発した。


「何故? 人魚の娘を守ろうとする? 我が食らわば、永遠の暗黒がもたらされる」


 由々が、即答する。


「受け入れられない!」

「どうせ、全て終わる。貴様は死んで。人魚は捕食される」

「愛姫子が傷つくのは、ごめんなんでね!」

憐憫れんびんか。あの女も、同じであった」


 大魔の言動に対して、ひるまなかったのは、和であった。


「それは、憐憫じゃないよ」


 和は身を起こすと、残りの御札を全て宙に放ち、印を切って叫んだ。


「愛だよ。ばかやろー!」


 直後、大魔の背後に、暗黒のホールが現れる。

 周囲に風が巻き起こり、吹き荒れる風は、周囲の生物、もの、否、あらゆる事象を巻き込んで、穴に吸い込まんとする。

 穴の向こう側は、見当もつかないくらい深い。

 愛姫子は、由々と和が、大魔を穴の向こう側へと封じようとしていることを理解する。

 しかし、吹き荒れる強い風の力を持ってしても、大魔を穴の向こう側へと追いやるには力があと一歩足りない。

 その時、由々が川に向かって跳躍し、右腕一本で片手突きを大魔に向かって放った。

 突きで大魔を穴に押し込もうというのだ。

 一方、大魔も最大の抵抗をみせる。アギトを大きく開き、巨大な暗黒球を生成し始めたのだ。暗黒球は大きな呪いに満ちていた。触れるもの全てを、不幸に引きずり落とす類のものだ。

 それでも、由々はひるまない。右手で握る刀に、さらに力を込める。

 愛姫子には、直観的に分かった。由々は、死んでもイイと思ってる。

 咄嗟とっさに体が動いた。水面を、人魚の体で跳躍する。一瞬で、由々のもとまで間合いを詰める。


「置いていかないで。独りにしないで!」


 愛姫子は、由々の肩を掴んだ。

 その時だ。大魔から放たれた呪いの暗黒球が、由々をそれる。

 しかしだ。暗黒球の軌道はこのままだと河川敷を通過し、街へと至る。

 その境目に、和が佇んでいた。

 由々はその時、和を一瞥すると微かに口元を動かした。「ありがとう」と伝えたのだと、愛姫子には分かった。

「十万億土の大魔」が穴に吸い込まれていったのと、暗黒球が和を直撃したのは、同時だった。

 あたりが、雷が落ちたかのような光に包まれる。

 やがて、その光が収まってくると、愛姫子の眼前には凄惨な光景が広がっていた。

 大魔の姿は、ない。

 だが、その代償として、由々は左腕に大きな傷を負い、和は呪いを一身に受けて倒れ伏していた。


(取り返しがつかないことをしてしまった)


 今日、愛姫子が由々に告白しようなんて、思わなければ。

 そもそも、愛姫子が大城兄妹と出会わなければ──。

 それが、愛姫子が15歳の時にあった出来事。

 以後、由々は左腕が肩から上にあがらなくなった。

 和は、原因不明の麻痺により、両足が動かなくなった。


 償うことなどできないまま時が流れ。やがて愛姫子が17歳となる頃。

 和は車椅子での生活の中、魔術的な思考にふけるようになっていて。

 由々は、学校にはいかない引きこもりとなり、和の世話をしながら家で過ごすようになる。

「分岐の日」をむかえたのは、そんな頃だった。

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