第十九章【過去編】「もしも約束の場所があるなら」

「ふーん?」


 由々よしよしから経緯を聞いても、のどかには不可解な点が多い。先ほどお風呂場でこの話をした時の和は、いたって真面目な話をしているような印象だった。彼女なりの大事なことを語ろうとしているということは、伝わってきたのだ。


「和、足が動くようになるかもしれないって言ってた」


 あたり前のことだと理性では理解していたが、改めて和が現在の不自由な体を治したいと思っていることを言葉にされると、愛姫子あきこは胸が痛むのだった。


「そんな、くもった顔で言いなさんなよ」

「く、曇ってないよ。私は、ただ……」


 由々に見透かされている。愛姫子の心にある自責の念について、由々はまたいつものことを言うのだろう。


「あれは十万じゅうまん億土おくどの大魔だった。直観で分かった。うちの一族が追い続けた宿敵だと。だから、和も命をかけた。愛姫子が申し訳なく思うことなんて、ないんだ」


 何度そう言われても、愛姫子が自分自身を責め続ける気持ちはなくならない。どうしても、あの日、自分が由々に告白しようなんて思わなければ、と思ってしまう。

 その時、愛姫子の携帯からメールの着信音に設定しているボン・ジョヴィの「Livin' on a Prayer」の冒頭部分が鳴り響いた。

 愛姫子は人魚モードから人間モードにチェンジして、鞄の中に入れていた携帯を取り出す。

 メールは、和からだった。


(わざわざメールを?)


 和の部屋と愛姫子たちがいる居間は近い。何か、妙だった。

 メールには、こう書いてあった。


【剣道場に来て。心を強く持って】


 すると、由々も何か虫の知らせを聞いたといった感じでつぶやいた。


「刀が鳴いている」

よしちゃん。和が、剣道場に来てくれって」

「ああ。愛姫子、先に行っててくれ。僕、部屋からよろずをとってからいくから」


 由ちゃんの愛刀である萬を? 何か、和に危機が迫っているのだろうか。

 由々が二階にある自分の部屋に向かい、愛姫子は廊下を玄関に向かった。靴を履いて剣道場へ向かって駆け出す。

 大城邸の剣道場は住居から大庭を挟んですぐ向かえにある。駆け足なら、一、二分で着く。

 愛姫子は、剣道場の玄関の前に立って、一呼吸だけ置いた。

 邪気はない。だが、何か神聖な気配を感じる。

 ガラリと玄関を開けると、剣道場の真ん中に車椅子に座った和が瞑目めいもくし、静止していた。


「和?」


 玄関から、剣道場の中心までは、少し距離がある。

 和はゆっくりと瞳を開くと、よく響く澄んだ声で、こんなことを言った。


「愛姫子さん。もし、私たちは忘れているだけで、とても大事な人たちともう一度集まろうと誓いあった『約束の場所』があるとしたら、どんな労苦もいとわずに、その場所に辿り着きたいと思う?」


 和の瞳には曇りがない。和は今でも愛姫子のことを愛してくれている。なぜだか、愛姫子はそんなことを思った。

 問いには、ちゃんと、答えなくてはならないだろう。


「よく、分からないわ。でもね、そう。私も、ずっと視線を感じていたんだ。温かい、まなざし。その人も、その『約束の場所』で待ち合わせしてるのだとしたら、私が行かなかったら、きっと悲しむと思う。だから。うん。もし、そんな大事な人たちが私にいたのだとしたら、私はもう一度逢いたいよ。だから、たとえ大変な想いをするとしても、その『約束の場所』には、行きたいと思う」


 愛姫子が言葉を紡ぐと、和は一言、


「ありがとう。愛姫子さん」


 と返した。

 愛姫子は、和の右瞳が光輝いているのに気がついた。

 愛姫子が知っている光である。


「『人魚のマーメイド・天眼サファイア』? どうして、和が?」


 世界に一つしかない「人魚のマーメイド・天眼サファイア」の光を、なぜ、和が?

 すると、愛姫子は何らかの強い見えない力で、人間モードから人魚モードへと姿を返された。

 愛姫子の「人魚のマーメイド・天眼サファイア」も光を放ち始める。

 今、この場所には、「人魚のマーメイド・天眼サファイア」が二つあることになる。

 続いて、愛姫子の心にソラからイメージが降りてくる。

 イメージには、映像だけでなく、音や匂い、肌に伝わる振動。世界を知覚する様々な感覚が伴っていた。


(何。揺れてる? 大地が、揺れてる? 違う、「まだ」だ。時間が。「時」が何か、おかしい)


 愛姫子の感覚では数瞬。イメージの世界から愛姫子が戻ってきて顔を上げると、和は瞳から一雫の涙を零して、言った。


「もう一度。私は、もう一度逢いたいよ。お兄ちゃん。愛姫子さん」


 和の口元から言の葉が零れ落ちると、そこで世界が終わった。


──私、白泉愛姫子の世界は暗転した。


 ◇◇◇


 由々が剣道場に辿り着くと、人魚の姿の愛姫子が倒れていた。

 由々に訪れたのは、世界が、自分という存在が揺らぐ感覚であった。

 剣道場の真ん中には和がいて、由々にこう言葉をかけた。


「空想の力が弱まってしまったから。もう、愛姫子さんはこの世界では生きられない。今日が『分岐の日』。お兄ちゃん、愛姫子さんを抱きしめて、庭へ行って」

「和?」

「行って!」


 和の剣幕に押されて、由々は言われたとおりに愛姫子を抱きかかえて、蹌踉よろめくように庭へと歩を進める。和の様子。何か、状況を打開する手があるのかもしれない。

 その時、由々の心に浮かんだのは、こんな想念だった。


──愛姫子。まだ、僕の本当の気持ちを伝えていない。


 かくして庭に出て数歩進むと、由々と愛姫子のもとに天から流星が落ちてきた。

 それが旅の始まり。物語の始まり。

 『分岐の日』に、由々と愛姫子に起こった出来事である。


 /第四部【過去編】「あの日、少女は何か大事なことを伝えようとしていた」・完


 第五部へ続く

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