第三十一章「赤いイメージと倒れた人魚」
ロビホンの食堂でのささやかな労いの席を終えて、
色々なことがあった一日だった。今日はあとは寝るだけという段階になって、真面目な愛姫子は心の中で復習をしていた。日中の戦いでできるようになった、二つの魔法を重ねる感覚を、心の中で確認していたのだ。
(うん。やっぱり水の属性の青いイメージの円と、風の属性の緑のイメージの円は自然なかたちで重ねることができるわ)
ヒーリアと相部屋である宿の二階の寝所に向かいながら、心の中のイメージに意識を向けていた時だった。
階段を登り切ったところで、愛姫子の心の中のイメージに変化が訪れた。重なる青と緑の円の中心に、赤い光球が現れたのだ。
(何?)
愛姫子の心の中のイメージが、あっという間に変化した。現れた赤い光が破裂し、青と緑の重なる円を粉々に破壊したのだ。
次の瞬間、愛姫子の物理的な体も、炎に焼かれたような熱に襲われる。
(何かが起こってる。とりあえず、伝えないと)
愛姫子にも状況が分からないが、まずは情報の共有が必要だ。愛姫子は前を歩いていた由々に声をかける。
「
愛姫子の声を聞いて、振り返る由々の動作がスローモーションに見えた。
体の外からの攻撃を受けた類の痛みではなく、体の内側からくるじわじわと焼かれるような苦悶。
愛姫子はゆっくりとその場に膝を折ると、そのままうつ伏せに倒れ伏した。
意識が遠くなっていく。
愛姫子の心が目の前の世界から遠のいていく時、「愛姫子」と困惑しながら呼びかけてくる由々の声が聞こえた気がした。
◇◇◇
由々の目の前で、愛する
倒れた愛姫子をヒーリアとの相部屋で泊まっていた部屋まで運び、ベッドに寝かせた。今回は、旅立ちの時のように完全に意識を失っているわけではない。泡になって消えようとしている様子も今のところない。
微睡んだ目で虚空を見つめていて、時々意識は繋がるようだが混濁しているようでまともに喋ったりはできない。何より、体全体から高熱を発しているのが特徴だ。
由々が持った印象としては、現実世界でいうところの重度の風邪、ないしは──
(感染症、か?)
その時部屋がノックされ、ロビホンが
さっそく氷を額に当ててみるが、僅かの間呼吸が和らいだような時間が訪れた以外は、大きく愛姫子の症状を改善する効果はないように思われた。
「ヒーリア、確認だけどこの世界に回復魔法のようなものはないんだよね?」
ギルドで聞いた七つの属性には「癒し」のようなものはなかった。
「病気や怪我を治してしまう類の魔法ですか? ありません、ね。あるとしたら、それは神の領域の所業でしょう。ただ、自分の属性が凝縮されている何らかの人・もの・場所の近くにいると治癒力がある程度高まるというのはあります。このタイミングで言ってみると、風属性の私は風の街のコルピオーネに来てから調子はよかったんです」
続いて、ディンディンが部屋に入ってくる。手には、湯気が出ているカップを持っている。
「薬屋がまだやっていたんでね。熱冷ましの薬湯を入れてみたんだが、飲めそうかい?」
「ディンディンさん、ありがとうございます」
「しかし、病ったって急じゃないか。夕方まで、元気だったのに」
「ええ。実際のところ、魔法的なもの、その他の今のところ原因が特定できない神秘、呪いなどの要因も考えられます。ですから……」
由々は丁寧な態度でロビホンとディンディンに部屋からの退出を促した。二人は愛姫子を心配していたが、由々が呪いが二人に移ることを警戒したい旨を伝えたため、二人は受け入れて部屋から出ていった。
足音が遠ざかっていったのを確認してから、部屋の隅に椅子を置いて座っていたヒーリアが声をかけてくる。
「感染症を警戒しましたね」
由々は頷く。仮に愛姫子の症状が現実世界のインフルエンザのようなものだったとしたら、第三者は物理的な距離をとっておくのが望ましい。
「この世界で感染症などの知識がどの程度普及しているのか分からないけど、ロビホンさんとディンディンさんは感染防止に関して、あまり意識が高くないように思われたから。って──」
ヒーリアは今、明確に「感染症」という言葉を使ったか。
「もし愛姫子さんの症状が細菌の増殖による炎症などだとして、この世界には抗生物質もありませんしね」
「ヒーリア、
ヒーリアが勢いをつけて
前髪に隠れた向こうにある瞳の片方が、淡く輝いている。
ヒーリアがとても無期的に、機械のような言葉を発した。
「『制限条項』、レベル2までの解除を確認」
これまでと異質なヒーリアの様子に由々はギョっとしたが、その状態は長くは続かなかった。
ヒーリアが顔を上げると、いつもの明朗な表情の彼女に戻っていた。
「あ、お話しできますね。ほうほう」
ヒーリアはまるで他人事のように自分の内面を確認している。
やがて、彼女の中で一定の理解に達したようで、ポツポツと由々に向かって話はじめた。
「実は私も異世界から来た人間なんです。しかも、これまでお聞きした話から推測するに。私がいたのは、由々君と愛姫子さんと、同じ世界だと思います」
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