第二十五章「優しさを諦めないということ」

 愛姫子あきこは、遠い記憶の中にいた。

 子どもの頃、遠くの国で戦争が起こったニュースを観て怖くなった。この国も、昔はやっていたって。

 自分が攻撃されるのが、怖い。同じくらい、自分が攻撃して誰かを傷つけるのが、怖い。

 母に抱きついて、震えながら思っていることを精一杯言葉にして伝えた。

 母の麗良れいらはよしよしと愛姫子の頭をでて言った。


「この世界には、戦争がある」


 愛姫子はビクっと肩を震わせたが。

 続いた母の言葉で、恐怖という感情はともかく、頭の混乱が治まるのを感じたのだ。

 あの日、母は言った。


「でも、その現実を理解したからって、優しさを諦めてイイ理由にはならないのよ」


 ◇◇◇


──たぶん私は、優しさを諦めなければならないことが怖かった。


 愛姫子は、目の前の傷ついた子ドラゴンに微笑みかけた。


(『ありのままに』か。だったら私、目の前のこの子を助けたい)


 愛姫子は子ドラゴンの背中に刺さったシャフトを優しく握り、先ほどよりも脱力して、スッと一気に引き抜いた。

 すぐに、血があふれ始める。

 その勢いに一瞬だけ動揺するが、今は進むしかないのだと自分を鼓舞する。強く前進する心の力が自分の内側にある。思考がクリアになっていく。


(たぶん。「あの時」、よしちゃんもこんな気持ちだったんだ)


 愛姫子は傷口に向かって手をかざした。


「アリアブル・メディア・ディノ」


 氷の魔法による縫合ほうごう

 精神を集中して子ドラゴンの傷を氷の糸でい合わせていく。

 血は止まった。愛姫子は大きく息を吐く。

 氷はやがて溶けるだろう。しかし、その前に子ドラゴンを連れ出してより根本的な止血処置を施せば、命は助かるように思われた。

 子ドラゴンも、愛姫子が善意の何かを竜に行い、痛みが軽くなったことを理解したようだ。


「お姉さんは? 誰?」


 果たしてどう答えたものだろう。人間? 人魚? ラーファン? 七色プリズム・魔道士ウィザード


「愛姫子。私は、愛姫子っていうの」


 愛姫子がそう答えると、フロアの中心に浮遊していた石板がゆっくりと愛姫子に近づいてきた。


「風の石板です。マーメイヤ様に連なる者よ。杖を」


 風の妖精・フーリンゲンが言った。

 愛姫子が片腕で子ドラゴンを抱き、もう片方の腕で七色プリズムの杖ロッドを掲げると。

 次の瞬間、石版は杖の緑色の円の部分に吸い込まれていく。

 不思議なことが起こった。石板が七色プリズムの杖ロッドに吸い込まれた時、母の声が聴こえたのだ。

 母はこう言っていた。


──愛姫子。寄せては返すリズムを繰り返す精神の大海の波に、逆らわないことだよ。


 瞳を閉じて、心の波を感じる。

 引いていた波が、強く力を放とうとしている。愛姫子には分かった。そうだ、この波に乗るんだ。


「子ドラゴンさん」

「僕は、イグナ」

「イグナくん。お母さんのところへ行こう。あなたの傷、癒せると思う。生きよう」


 イグナが愛姫子により強く抱きついてきたので、愛姫子は同意の意志だと受け取った。

 確信がある。今なら、愛姫子は新しい属性の魔法が使えるはずだ。すなわち、「風」の魔法。

 愛姫子は、塔の天井の吹き抜けの向こうの空を見上げた。


(やり方。ヒーリアのを見ていたわ)


 左腕に白翼の小竜を抱え、右腕に七色プリズムの杖ロッドを持った愛姫子は、祈りを込めて発声する。


「七色魔法・二色目、風のグリーン、アンダルガルド・ホロ・リアリアブル!」


 すると緑色の光が杖から拡散し、ヒーリアが使っていた竜巻上の風を巻き起こす魔法が発動した。

 愛姫子は風に上手く乗ると、そのまま一気に吹き抜けの天井を抜けて、十三階の向こうの空まで向かっていく。

 愛姫子は不思議と、由々よしよしとヒーリアが塔の外でこちらに向かってきてくれているのを感じていた。

 強い気持ちが愛姫子の中心から湧き上がってきていた。


(どこにも犠牲を出さずに済むなら、それが一番いいじゃない?)


 ◇◇◇


 愛姫子が風の塔の屋上に出ると、強い邪悪な波動が空から近づいてくるのを感じた。

 まだ、上昇に使った風の魔法の勢いを止められていない。このままでは、降りかかる邪悪と正面からぶつかってしまう。

 愛姫子は、迫りくる巨大な邪悪を見上げた。邪悪の正体は、暗黒ブラック・ドラゴンであった。


白翼ホワイト・ドラゴン、黒くなってる)


 暗黒竜は明らかにこちらへ殺意を向けている。完全に暴走しているのを愛姫子は理解する。

 暗黒竜は鋭い鍵爪を振り上げている。そのまま、愛姫子ごと子ドラゴンのイグナをも切り裂こうとしている。

 親に子を殺させたくなんかなかった。

 しかし、何らかの対抗措置を取ろうにも、愛姫子に次の魔法の発動は間に合わない。


(また、調子に乗ってしまったのか)


 やっぱり、ダメだった。前向きなイメージを抱いて行動すると、強い破滅的なことを引き寄せてしまう。

 また、小波さざなみ程度の自分の心の波は、大きくて暴力的な波にかき消されそうになってしまう。

 ネガティブな、思念が過ぎる。


──私がどんなに頑張っても、どうせ、「生存券」がない人はもうすぐ死んじゃうんでしょう?


 愛姫子は瞳をつむってしまった。

 しかし、暗黒竜の鍵爪による衝撃がこない。


(まったく。こうやって瞳を閉じてしまうから、私はカッコいい何かに、ずっとなれないんだ)


 奇妙だ。痛みもない。破壊もない。それどころか、心の絶望もない。むしろ、また心の波は、強い力をつくり始めているような。

 クー、と抱きかかえているイグナが鳴く声が聴こえたので、ハっとして愛姫子は瞳を開けた。

 目の前に映っていた光景は──


──少女の背中だ。


 陽光が反射した海の光に照らされて、少女の髪は眩い銀色だった。

 海風に髪を揺らせながら彼女は振り向いて、愛姫子に朗らかに笑いかけた。


「はっはっは。愛姫子さん。あなた、この世の深淵しんえんに想いを馳せて思い悩むなんて、危うきと紙一重なくらい真面目な人。でも、そういうところ、好きです!」

「ヒーリア!?」


 いつの間にか、塔の屋上の端に愛姫子は移動していた。暗黒竜の脅威も、一旦通り過ぎている。


「由々君が塔の屋上に愛姫子さんがくるって言うんで飛ばしていたのですが、暗黒竜の方が速くて、これは間に合わない! という状況でした。なので……」


 ヒーリアはカラッとした口調で事もなげに言った。


「時を止めました。3秒ほどですが!」

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