第十一章「異世界の海で泳いでみた」

 由々よしよしが差し伸ばされたヒーリアの手をとると、ヒーリアは由々の手をギュっと握り返し、風の魔法の補助を借りながら慌てて由々にしがみついた愛姫子あきこごと勢いよく宙に引っ張り上げた。

 瞬間、視線がソラに向いたから。由々の瞳に蒼穹そうきゅうの光が飛び込んでくる。

 現れたペガサスは、空飛ぶ馬車を引いていた。

 ペガサスの背中に乗っているヒーリアをポーンと飛び越して、由々と愛姫子は馬車に放り込まれる。


「さあ。出発ですよ!」


 柔らかな太陽の光のようなヒーリアの掛け声で、ペガサスの馬車が走り出す。


(手荒い乗車だったな)


 由々は心の中でツッコミつつも、同時に胸が踊っている自分も自覚していた。

 ファンタジー世界の街道を、ペガサスの馬車でける。それは、なんともワクワクすることではないか。

 かくして、コルピオン街道をペガサスと風の馬車で駆けてゆく。

 馬車の前方から外に向かって顔を出すと、心地よい風が由々の顔を、肌をでていく。


「スピード、出し過ぎじゃないか?」


 現実世界の自動車の、日本での法定速度はゆうに超えるくらいの速さで疾走していたので、由々が老婆心ながらヒーリアに尋ねる。

 すると、後方から愛姫子も出てきて風を受けながら言った。


「私は平気。お母さん、車でスピード出す人だったし」


(ああ。麗良れいらさんか)


 豪快で痛快な人だった。その愛姫子の母が運転するもの凄く速く走る車には、由々も乗ったことがあった。


「半日くらいで、着きますんで!」


 ヒーリアがペガサスの馬上で手綱を握りながら、背を向けたまま言った。

 徒歩だと三日ほどという話だったので、それなら想定していたよりもかなり早くコルピオーネに着くことになる。

 風の塔とドラゴンが待つ街で、何が得られるのかはまだ分からないが、アスガル王の「奪還作戦」開始までにそんなにも時間がないと推定される。早め、早めに行動はしておくべきだろう。


よしちゃん、あれ見て!」


 由々の腕に抱きつきながら遠方の情景を嬉々としたテンションで指差す愛姫子の声で、由々は現状について理性的に考える思索から、ファンタジーで心が躍るこの異世界の現実に引き戻された。

 遠くの丘の上空を、だいだい色の鳥の群れが飛んでいる。群れは群体として、フォーメーションを有機的に変えながら、力強く、美しく飛び続けていた。


「生きてるのね。ここは空想の世界なのに。なんだか不思議」


 そう零した愛姫子が、自分の腕につかまっていたのを、由々は少しだけ引き寄せた。


「愛姫子」

「何?」

「いや。なんでもない」


 由々と愛姫子とヒーリアは、天空を己の志向性に忠実に飛び続ける鳥の群れを眺めながら、自分たちは風となってコルピオン街道を翔けた。

 楽しい時間はあっという間で、その日の午後には、コルピオーネの街に到着することとなるのであった。


 ◇◇◇


 街道の終着点は、海を一望できる崖であった。

 ヒーリアが万能のシルフレッド風の型・スターのチョークで再び空中に大きな円を描くと、ペガサスは最後にひときわ大きくいな鳴き、馬車ごとホールの向こうへと帰っていった。

 さて、コルピオーネの街であるが。


(風が吹いている)


 愛姫子はまず、海の方から吹いてくる風に心地よさを感じた。

 風は柔く愛姫子の肌を撫でて、何も干渉しようとせずに、ただ通り過ぎていく。涼やかな感覚だけが、体の表面に残留する。

 ここは崖の上であるが、崖の下に向かってゆるやかにくだるように街が展開されている。ここから海が広がる一番下の領域まで降りていくには、一セット一セットが長い階段を七セットほど降りていく感じの地形だ。その一セット一セットの幅の空間に、中規模な街がそれぞれ展開されているのだ。


「塩の香りがする」


 由々とヒーリアと並んで、彼方まで広がる海を、瞳の奥に呼び込みながら言った。


(空想の世界なのに、風も、匂いも、波の音も、海水に照りつける光も、どこまでも海だ)


 愛姫子は吸い込まれるように、歩き始めた。

 下のセットに展開されている街へと降りていく階段に向かっていく愛姫子に、由々とヒーリアも無言でついてくる。愛姫子がなにか、感じ入った状態であるのを察してくれているらしい。

 下へ、下へ。段差の狭間に展開されている街を通り抜けながら、最後の七セット目まで降りていく。

 何はともあれ、まずは一番下の海の領域を目指さなくてはならない。愛姫子の心がそう告げているのだ。

 かくして、一番下の大地に展開されている街の果て、海へと繋がる波打ち際まで辿り着いた。

 穏やかに波が寄せては、引いている。一定のリズムで、時間を紡いでいるように。


「邪気のない海」


 愛姫子が零すと。


「僕たちの世界の海と、同じだよね」


 由々が言った。


「私、海は好きですよ。果てが見えないのが、イイ」


 ヒーリアも想っていることを伝えてくる。

 海は、やはり愛姫子にとっては自分の真ん中にある原風景のような場所である。こんな異世界の果てまできても、今、「世界が、光輝いている」と感じられたためだろう。自分でも、意外な言葉を口にしていた。


「由ちゃん。人魚の姿になってもイイ?」


 体の真ん中が、うずうずとしてしまっているのだ。

 それは、ヒーリアの前で人魚の姿を見せてもいいか? という意味を含んだ言葉であったのだが。


「もちろん。泳いだらいいさ」


 由々の返事はあっさりとしたものだった。


(軽いな〜)


 でもイイ。静かに命のリズムをとっている海と、一体になりたいのだ。泳ぎたいのだ。それには、自分はやっぱり人魚の姿なのだ。


「ヒーリア、びっくりさせちゃったらゴメンね」


 愛姫子は波打ち際から勢いよく跳躍すると、空中で光に包まれ、次の瞬間には人魚の姿になった。そのまま海へとドボン。

 ギュン! と体に力がみなぎるのを感じる。一気に水中を、普通の人間であったら船を出さねばならないような距離まで泳ぎ、ターン。再び、由々とヒーリアが待つ波打ち際まで帰ってくる。ここまで、僅かな時間であった。

 さて、ヒーリアは愛姫子が人魚だと知ってどう思うだろうか。

 ちょっと恐る恐る海中から上半身だけ水面に出してみると。


「だばばー」


 ヒーリアは謎の言葉を発しながら、両手の親指と人差し指で輪をつくり、眼鏡のように両眼にあてて現れた愛姫子を見る、というよく分からないリアクションをしてきた。


「綺麗、ですよ」

「驚かないの? 私、半分人魚なんだ」

「そういうこともあるでしょう。誰しも、そんな自分、こんな自分、色々とあるものです。それに……」

「それに?」

「私、人魚、見たことありますんで」


 ああ、そういう。確かに、ペガサスを召喚してみせたヒーリアである。人魚くらい、既に出会ったことがあってもおかしくはない。


「愛姫子、なんかイキイキしてるよ」

「そ、そう?」

「愛姫子さん、愛姫子さん!」

「な、なに?」


 破顔して、人魚の姿である自分を見つめるヒーリアが、何を言うのかと思えば。


「愛姫子さんは」

「うん」

「まるで、少女のようですね!」


 その言葉に、愛姫子はちょっとだけ顔を赤らめた。

 確かに、なんかテンションが上がってしまっていたが。でも、そう言われて悪い気もしない。

 まずはこの世界の海と一体化して泳いだこと。それが、この風の街──コルピオーネの街での冒険の始まり。

 愛姫子と由々とヒーリアは。

 優しい人と、心の旅と、戦いと、これから出会っていくことになるのであった。

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