なかよし幼馴染とゆくこの世界と異世界

相羽裕司

プロローグ〜言えない「愛してる」と世界の終わりの日に向けての「約束」

 子どもの頃、確かに幸せな時間があった。

 少女から差し出された湯呑みを受け取って、渇いた喉をうるおす。

 剣術の稽古帰りの疲れた体に、温かいお茶が染み入っていく。

 幼児に抹茶はちょっと渋いけど、この秘密基地での飲み物は、緑茶が定番となっていた。


「美味しい」


 大城おおしろ由々よしよしが、わんにたっぷりと注がれていたお茶を半分まで飲んで、かたわらの少女に微笑みかけた。


「心を込めて、れているからね」


 お茶を出してくれた少女──白泉しらいずみ愛姫子あきこは、美しいブロンドの髪をしている。特筆する点があるとすれば、下半身が魚である点である。

 彼女は人魚だった。

 上半身は裸である。長い髪のサイドを下ろして、胸を隠れるようにしている。


「稽古、今日もがんばったんだよね? お腹が空いているなら、遠慮なく私を食べてね」

「だから、食べないって。本当ソレ、あんまり言うなよ」


 由々と愛姫子の家がある郊外の山を切り拓いた住宅地の片隅の空き地に、秘密基地はあった。

 大きな岩々が四方から積み上げられていて、上に天井にあたる平べったい岩が乗っている。中心にちょうど子どもが遊ぶのに適した、数メートル四方の空間があったのだ。岩の部屋の入り口の扉状の岩は左右に動かすことができて、その閉鎖と解放を行き来できる仕様がますます子ども心のワクワクを高めていた。そんな理想的な秘密基地を、由々たちは「岩戸いわと」と呼んでいた。

 岩戸には愛姫子の他にもう一人、少女がいた。


「愛姫子さんを食べてはダメだよ。今日は、玉子焼きつくったから。お兄ちゃん、好きでしょ?」


 黒髪をツインテールにまとめた溌溂はつらつとした少女が、眼前のちゃぶ台にお弁当を広げていく。

 由々と愛姫子よりも、さらに幼い顔立ち。こちらの少女との縁は、愛姫子とよりも長い。生まれた時から、知っている女の子。幼児にしては既にしっかり者のていで、穏やかに由々を見つめる少女の名は、のどか。由々の妹である。


よしちゃんは、私よりニワトリが好きなのか〜」

「愛姫子さん。それ、なんか『好き』がごっちゃになってると思う」


 利発な妹で、幼児にして話も達者ならば、母の監督のもとで簡単な料理までこしらえてしまう。

 和がつくったという玉子焼きを箸で口に運ぶと、甘い香りがした。砂糖を多めに使っているのだろう。糖のエネルギーが、稽古で消耗した体に優しく伝わってゆく。

 秘密基地では、本格的に食事をとるわけではない。家に帰ったならば、各々の親が用意してくれた美味しいご飯が待っているのだから。

 お弁当箱からいくつかのおかずをつまんで口に運び、味わうと、愛姫子は岩戸の床に、ゴロンと横になった。


「由ちゃんに、肩を揉んでもらうもーん」

「愛姫子さんが、揉んでもらうの? 稽古で疲れてるお兄ちゃんじゃなくて?」

「だって、その方が由ちゃん喜ぶんだもーん」

「愛姫子さんは、自由だなぁ」


 由々はうつ伏せになった愛姫子の背中に触れて、念を込める。指先と愛姫子の心臓が触れ合って、「気」が行き来するのを感じとる。


「でも確かに、愛姫子の肩揉みをしていると。ほどよく、ちょうどよく、ゆうゆうとした気分になってくるんだ。心地よいんだ」

「うーん。お兄ちゃん、なんか変態っぽい」

「ええ!? そんなことは、ないだろう!?」


 和が、ねたように口をすぼめる。


「由ちゃんが喜んでくれるなら、すごいイイんだ。だって、私」


 大事なものを噛み締めるような恍惚こうこつとした表情で、愛姫子が言葉を紡いでいく。


「お母さんが言ってた。この世界のどこかで、誰かがずっと私のことを大切だって思ってるんだって。この姿を見ても、気にしない。私のこと大好きだって、ビンビンに伝わってくる。私、もう見つけたんだ」


 愛姫子は勢いをつけて起き上がると、覆いかぶさるように由々と和を抱きしめた。高揚して、顔を火照らせている。


「私、由ちゃんも和も、大好き」


 満面の笑顔で、愛姫子は気持ちを由々たちに伝えてきた。


 三人は大の「なかよし」で、ソレは友だちであるとか家族であるとかを、超えた関係であると由々は思っている。

 強い、繋がりを感じている。

 これから大人になっていく過程で全てがバラバラになってしまったとしても、最後に「たましい」が帰ってくる場所は、きっとここであるように思っている。

 そう。

「なかよし」とは、「居場所」だ。

 なのだけど。


──ここは、「まだ」現実だ。


「僕も愛姫子のことが好きだ」と返しそうになった言葉を、由々は飲み込む。

 そう。

 まだ子どもなのにと笑われてもいい。

 幼い心に浮かんだ幻に過ぎない、と言われたっていい。

 大城由々という男は、白泉愛姫子という女を愛しているのだ。

 しかし、由々は愛姫子に「愛してる」と伝えることができない。

 自分だけが大人になってしまって、空から由々にとって大事な二人の女の子を眺めているような感覚が湧いてくる。とても、寂しい。

 ああ、こんなにも幸せなのに。


──僕は冷たい人間なんだな。


「お兄ちゃん」


 和は愛姫子に抱きしめられたまま、由々に視線を向けると、


「ずっと一緒にいたいな」


 と、言葉を零した。


「私、お兄ちゃんと愛姫子さんと、ずっと一緒にいたい」

「私も!」


 愛姫子が和に賛同の意を示す。


「大人たちがしている、世界の終わりに何をしてるかって話、知ってる? 私は、世界の終わりの時も、お兄ちゃんと愛姫子さんと一緒にいたい」

「世界の終わり! 怖い! でも、私も由ちゃんと和と一緒にいたい」

「というかさ」


 由々が愛姫子と和の会話に感想を述べる。

 その時、どうしてそんな前向きな想念を抱いたのか、自分でも分からない。


「世界の終わりの時に、僕たちが一緒にいて『なかよし』だったら、世界は終わらないよ」


 由々の発言に、愛姫子が食いついた。


「そうだね。私もそんな気がする!」


 万事全てが大丈夫であるような、奇跡の魔法を知っているような気持ち。自分が冷たい人間だって思っているのに、三人でいると同時にそんな無敵の気持ちもどこかから湧いてくる。不思議だ。


「でも、世界の終わりの時に、誰か一人が一緒じゃなかったらどうしよう?」


 愛姫子が不安げに言った。


「じゃあ、約束をしようよ」


 和が言った。


「世界の終わりの時に、もし一緒じゃなかった一人がいたら、その一人は必ず駆けつけること」

「わ、分かった。そうならなければイイけど、もし私がその一人だったら、がんばる」

「残りの二人も、その一人を引っ張れるようにがんばらないとな」


 由々も、「約束」に同意を示すように、手のひらを天井に向かって掲げた。


──世界の終わりの時にも、三人で一緒にいること。


 由々と、愛姫子と、和の、手のひらが重なる。


「「「約束」」」


 岩戸の中には、扉の隙間からあかね色の夕日が優しく差し込んでいた。

 そろそろ、子どもの遊びの時間には一区切りつけて、家へと帰らなくてはならない頃だろう。


 そうして、愛姫子に「愛してる」とは言えないまま時間は流れて。

 十七歳になった由々は、その日をむかえることになる。


 ◇◇◇


【この世界・分岐の日:20●●年――由々、17歳の時。】


 愛する人が、息絶えようとしていた。

 彼女は人魚だったから。

 空想を認める余裕がなくなったこの世界では、生きることができなくなったのだ。

 男──大城由々は人魚おんなの体を抱えて、ギュっと抱きしめた。

 女の呼吸が弱くなっていく。死という現実が間近に迫っている。


(ああ、この先も、彼女あきこと生きていきたいのに)


 心臓の音が、途切れ途切れになっていく。


(まだ、本当の気持ちも、愛姫子あきこに伝えられていないのに)


 人魚の体が、光を放ち始めた。童話くうそうで語られている通りだ。泡となって、消えようとしているのだ。

 深い悲しみに由々は襲われた。心が痛いのではない、魂が砕け散ってしまいそうなのだ。


(愛姫子。僕とキミとは、ありふれた愛を育むような関係にはなれなかった)


──僕は、キミを殺すための剣を磨いて。


 喪われてゆく、愛する女に視線を落とす。反応は、ない。


(無力だ。あまりにも、世間知らずだったんだ)


──僕は、キミを幸せにはできないんだ。


 もう、取り返しがつかないのかもしれない。

 それでも、思ってしまう。


──こんな、終わり方は嫌だ。


 大きな絶望を目の前にした人間が、最後にそうすることしかできないように。

 由々はそらを仰いで、強く願った。


「神様。僕の全てを差し出してもいい。どうか。愛姫子を死なせないでくれ」


 よしよしの祈りの言葉が木霊すと、空の彼方に眩い光が明滅した。

 とおい。

 遠いところから、何かが近づいてくる。

 ソレは、磁力で引かれ合うように、由々に向かってきていた。

 由々の強い思念が、引き寄せているのか?

 流星のような──灼熱の光玉は、由々の額を直撃する。

 衝撃が波動を呼び起こし、全方位に向けて拡散する。体が。世界がバラバラになるかのよう。

 ほとばしる鳴動に、自分という存在が波となって溶け合っていく。

 いつしか、意識は途切れて──

 大城由々の世界は、暗転した。

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