12.ささやかな企み

 夕方から降り始めた雨は、昼間の空模様を嘘のように変えてしまっていた。分厚く敷き詰められた濃灰色の雲は月も星も飲み込んでしまって、代わりのように大粒の雨を地面へと叩きつけていた。

 ミゲルは祈祷用の窓からそれを暫く見ていたが、少し離れた場所に揺れるランタンの光を見つけると慌てて窓を閉めた。


「母上」


 夕飯の支度をしている母親に声をかける。野菜がたっぷり入ったシチューをかき回していた母親は、振り向きもせずに「なぁに?」と聞き返した。

 弟二人は今ばかりは母親にまとわりついておらず、ミゲルの傍で木馬を手にして遊んでいる。母親が火の傍にいるときは決して近付いてはいけない。それはこの家では絶対ともされる教えであり、それを破った者には容赦なく父親からの拳が飛ぶことになっている。


「父上が帰ってきました」

「あら、雨なのに随分早いこと」


 母親は少し驚いた声を出した。護衛騎士は雨の日は仕事が多くなる。水のたまりやすい広場に土嚢を積み上げたり、更にこの時期は既に供えられた供物を雨から守るために教会の中に運び込んだりしなければならないからである。

 そういう意味で言えば、確かに時間は早かった。ミゲルは自分が見た光が本当に父親のものであったか、少々自信を喪失したが、それはすぐに家の扉を開ける音で打ち消された。父親の扉の開け方はすぐにわかる。何の迷いも無く、警戒も無く、一気に扉を開けて入ってくるのは父親の特権のようになっていた。


「今帰った」

「おかえりなさい、父上」


 ミゲルが父親を出迎えに近付くと、大きな手がそれを制止した。外套を身に纏っているとはいえ、その体は全身濡れていた。髪や指の先から水がしたたり落ちて床を濡らす。


「濡れるから離れるように。タオルを持ってきなさい」

「はい」


 隣室からよく乾いたタオルを一枚持ってきて父親に渡す。その間に外套を脱いで扉脇のフックに引っかけていたユージンは、短い労いの言葉とともにそれを受け取ると、まずは頭を拭い、それから肩や腕の水滴を拭き取った。


「お湯は使いますか?」


 そう訊ねたのは母親だった。よく見ればシチューとは別に大きな鍋で水を沸かしている。この雨の中帰ってくる夫のために用意していたのだろう。こういう時にミゲルは母親という存在が偉大であることを思い知らされる。


「あぁ、頼む」


 ユージンはそう答えてタオルをミゲルへと渡した。ミゲルがそれを母親のところに持って行くと、濡れた状態のまま湯を張った鍋へと放り込まれる。そして数秒もしないうちに取り出され、手で堅く絞られた後に再びミゲルへ、そしてユージンへと戻された。


「お食事もすぐに」

「着替えてくる。支度は急がなくても良い」

「はい」


 素直に応じた母親は、しかし支度の手を緩めるような真似はしなかった。ユージンが自室に戻っている隙に息子達を食卓から一時的に排除し、クロスを敷いて、その上にシチューが入った皿を人数分並べた。

 ジャムが入った瓶と堅いパンを積み上げたバスケットが食卓の中央に置かれるのとほぼ同時に、濡れた服を脱ぎ捨てて清潔な装いになったユージンが部屋から出てきた。

 全員で食卓を囲み、短い祈りを捧げる。いつもと変わらない食事風景は、これからも変わることはないようにミゲルには思えた。


「今日は早かったのですね」


 母親がそう言うと、向かいに座ったユージンは「あぁ」と頷いた。


「部下に任せてきた。明日は聖花祭だからな。早く帰って体を休めるようにと僧正陛下が仰ったんだ」

「まぁ、陛下から労いのお言葉を?」

「ありがたいことだ。明日は一層身を引き締めなければならないだろう」


 父親は丈夫な顎でパンを噛みちぎると、それを飲み込んでから隣に座るミゲルを見た。この家の食卓では、父親以外は明確な個人の席というものが定められていない。父親が座った時を基準に、自分のすぐ傍にある椅子を使うようになっている。

 今日はミゲルは直前まで父親の近くにいたため、右隣に座っていた。


「明日はお前も祭りに行くんだったな。周りに迷惑をかけてはならないぞ」

「はい、大丈夫です」

「まぁ少し羽目を外すくらいは構わないがな。子供にも友達付き合いというのは大切だ。スヴェイやアンテラと行くのだろう?」


 ミゲルは肯定を返そうとして、そしてレンのことを考えた。新しく出来た友達のことを親に報告するのは当然の義務である。まして一緒に祭りに行くのであれば尚更だった。

 しかしそれと同時に、昼間の出来事が脳裏に蘇る。自分を置いていったレン。自分からレンを攫っていった若い男。レンの甘えるような仕草。胸の中に黒い燻りが蘇る。ミゲルは自分の中のそれが、あまり褒められたものではないことを直感的に悟っていた。どうにかして消さねばならない。消すにはどうすれば良いか。幼い頭の中で様々な考えが飛び交う。ミゲルはレンと仲良くなりたかった。今よりもっと、そして深く長く。あの笑顔が自分にも向くように。


「父上」


 ミゲルは一つの考えに飛びつき、そして即座に口にした。


「街で噂を聞きました」

「噂?」

「ファーティ川の上流に、異教徒らしき家族が住んでいるという噂です」


 父親が驚いた顔をする。それに気をよくしたミゲルは、スヴェイから聞いた話をそのまま、否、少々の脚色を加えながらユージンへと伝えた。護衛騎士である父親がこの噂を無視することはない。きっとレン達のところに行き、真偽を確かめるだろう。


「それは本当か」

「噂です。でも聞いたからには父上にお伝えする必要があると思いました」


 レンが怯える姿を想像して内心で笑う。異教徒でないとわかればすぐに嫌疑は晴れるだろうが、それまでの間の不安は容易に想像がつく。レンが少し困れば良いと、ミゲルは考えていた。嫌疑が晴れたあと、レンはきっとその出来事をミゲルに報告する。それを親身になって慰めてやれば、あの男に向けたような表情を自分にも見せてくれるに違いない。

それが見られれば胸の中の燻りも消える。

 最高とも言える考えにミゲルは自分で酔っていた。そこに少しでも謙遜の気持ちがあれば、隣にいるユージンの表情にも少しは気を配れたかもしれない。だがミゲルは思いついたことのみに満足してしまい、食事を再開してしまった。そのため父親が浮かべた表情が驚きだけでなく喜びを含んでいることに気付くことはなかった。

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