13.風が吹く
激しく窓を叩く音に目が覚めた。窓に取り付けられた薄い扉が蝶番ごと揺れている。その隙間から太陽の光が全く差していないことに気がつくと、ミゲルは溜息をついた。まだ夜明けには随分と早い。強風や強雨で起こされることは珍しいことではないが、昨日遅くまで酒を飲んでいたためか少し頭が重かった。
ベッドの上に体を起こして、暫く風の音に耳を澄ませていたが、それにより段々と昨日の記憶が蘇ってきた。
「悪しき、風」
巫女の神託を思い出して、慌てて窓の扉を開けた。年代物の硝子窓の向こうでは庭の木が殆ど折れ曲がりそうな勢いで揺れていた。嵐が来たのかと思うほどの強い風だったが、雨は降っていない。
ミゲルはベッドから降りると、急いで身支度を調えて外に出た。この風で起こされたのはミゲルだけではない筈だった。起きた人間の殆どは、ラミーの神託が当たったことを確信していることだろう。そして確信した彼らは広場に詰めかけるに違いない。悪しき風の正体を知りに、そして少しでも不安を消すために。
家の外は真っ暗だった。ミゲルはランタンに火を点し、騎士装束の上に雨よけのマントを羽織る。今は風だけでも、そのうち雨が降るかも知れないと考えてのことだった。足元は昨日の降雨により少しぬかるんでいる。
風の音だけがむやみに煩い中、教会を目指して歩き出したミゲルだったが、あたりの暗さも相まって、まるで自分だけがこの世界にいるような錯覚に襲われた。恐らくはこの風と、それにまつわる神託のせいだろう。ミゲルの家は街の中心部からは少し離れた場所にあるが、決して建物が少ないわけではない。それらの建物が今は皆静まりかえり、荒々しい風に黙って耐えているのを見ると、どこか薄ら寒いものを感じた。
「らしくないな」
ミゲルは自分の腰に下げた剣の柄を右手で押さえて呟いた。昨夜はどうにか、アンテラにもスヴェイにも同意しないでやり過ごしたのに、これでは何の意味もない。
ミゲルは風の吹きすさぶ中で一度立ち止まると、太陽が昇るであろう方向に向かって祈りを捧げた。その行為だけが今の自分を救ってくれるとミゲルは考えていた。誰かが耳元で怒鳴りつけるような轟音も、首や腕を叩く風も、祈りを捧げていくうちに次第に遠ざかっていく。やがてミゲルの中は全くの無音になった。風も音も暗さも、もう感じなかった。静かになった精神の中で祈りを終えて、再び歩き出す。
「俺は自分の仕事をするだけだ」
多くの信者がそうであるように、ミゲルは信仰の力を信じていた。無力な人間に神が与えたのは祈りである。神は己に祈る事は出来ない。人間にだけ許された小さな力は、それ故に意味を持つ。
ミゲルが祈りを捧げるのは、一日の訪れとその終わりが平穏であるためだった。実際にはそれが叶わない日もあるが、それは大きな問題ではない。自分がそれを意識して行動出来るかどうかが重要なのである。だから祈りを捧げたミゲルは、もう余計なことは考えなかった。何が起ころうとも何があろうとも、平穏な日々を護る。それがミゲルの足を前へと進めた。
やがて街が近付いてくると、いくつか明かりが零れる家が見えた。広場に繋がる大通りに差し掛かると、丁度一人の見習い騎士が逆の方向から現れた。
「団長、おはようございます」
風の音に負けじと、見習いは大きな声を出す。
「早いな。君も風の音で目が覚めたのか」
「僕ではなくて爺ちゃ……祖父がですね、神託が当たったと騒ぎ立てるものですから」
見習いは仕方なさそうに笑った後で、すぐに教会に向かって走り出した。夜番で詰所にいる騎士達に、ミゲルが来たことを伝えるためだろう。真面目な少年の後ろ姿を頼もしく見送り、ミゲルは少し強くなってきた風の中を進み続ける。
広場が近付いてくると、果たして予想した通りのことが起きていた。広場と通りを遮る門の前に、寝間着姿に防寒具を不格好に重ねた人々が詰めかけている。その数、二十名足らずであるが、時間帯を考えれば異常なことだった。門の前では副団長である男が、騒ぎ立てる彼らを叱責している。確かこのすぐ近くに住んでいた筈だと思い出しながら、ミゲルはそちらに向かった。
強風と距離のために聞き取れなかった声が段々と明瞭になっていく。副団長は殆ど投げやりな態度で声を荒げていた。
「いいから帰りなさい。此処にいても僧正陛下のご命令でも無い限りは門は開けないんだ」
「では巫女様を呼んでください」
先頭にいた老婆がしわがれた声を出す。腰が曲がり、枯れ枝のような体には少々派手すぎる真っ赤なショールを巻き付けている。裾にたっぷりとレースがあしらわれたショールを見てミゲルは眉を寄せた。それはスヴェイの祖母に違いなかった。
「巫女様も司祭長様も、まだお休みだ」
「そんなことを言わず、どうか」
老婆は泣きそうな声を出しながら細い手を伸ばす。手には小さな布袋が握りこまれていた。重心が下に偏っているところから見て、恐らく小銭が入っているのだろう。副団長である男は、殆ど舌打ちしそうなほど顔を歪めて、老婆の手を払いのけた。
「何の真似だ。俺に賄賂でも渡せば言うことを聞くとでも思っているのか!」
睨み付けながら吐き捨てられて、老婆は怯えたように後ずさる。ミゲルはその傍に駆け寄ると、二人の間に自分の体を滑り込ませた。
「ミゲル……団長」
「すまない、遅くなった」
短く謝罪をしてから、ミゲルは少し腰を屈めて老婆を覗き込んだ。怯えた表情の老婆の手を優しく包み込み、少し押し返す。
「こんな真似をしてはいけない。不安なのは理解するが、此処は神聖な場所だ」
「悪しき風が訪れると、巫女様は」
老婆は袋を持つ手は下げたものの、それでも何か言わずにはいられないとばかりに掠れた声を出す。目の前にいるのが、己の孫の友人であることには気がついていないようだった。
「一度家に戻り、ゆっくり休んだ方がいい。此処にずっといては体にも良くない。貴女が会いたがっている巫女様だって心配する筈だ」
巫女の事を持ち出せば、老婆は少し落ち着きを取り戻したようだった。ミゲルは顔を上げると、他の人々を見回す。こうして見ると年齢も性別もまるで揃ってはいなかった。老いも若きも、不安に負けてここまで来たのだろう。それには同情しないわけでもないが、それでも門を開けたり、まして巫女を呼び出すことも出来なかった。寧ろそれをしてしまえば、護衛騎士の存在意味が無くなってしまう。
「この門は開けることは出来ない。日が昇り、僧正陛下の許可が下りれば開けるから、それまで待っていて欲しい。もしこの風が即座に人に害を与えるものであれば、我ら護衛騎士が対処しよう」
可能な限り堂々と言い放つと、人々はすぐ近くにいる者と不安そうに顔を見合わせた。自分たちの目の前にいるのが、新しい騎士団長であることに気がついたためだろう。若さ故にその実力を疑問視する者は、未だに多い。
しかし、それに助け船を出したのは副団長の男だった。ミゲルの肩を強く掴み、一歩その横に進み出る。
「団長殿が言うとおりだ。今、騎士団は全員此処に集合しつつある。もし何かあれば即座に駆けつけることを約束しよう」
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