22.司祭長の言葉
司祭長が広場に現れた途端、それまでざわめいていた民衆は示し合わせたかのように口を閉ざした。広場に設置された壇上に昇っていくレンの、一挙一動を見逃すまいとするように彼らは目を見開く。恐らくその殆どが、後ろに続くミゲルのことなど気にも留めていなかった。彼らにとっては司祭長と、あるいは此処にいない神託の巫女しか重要ではないのだろう。
たった五段しかない階段を昇り、壇上に立ったレンは、細く長い息を吐き出した。そして自らに寄せられている視線一つ一つを確認するように首を動かす。わずか数秒のことだったが、広場の静寂と緊張も相まって長く感じられた。
「ミラスマの神の元に集いし、信者の皆さん」
レンの透き通った声が広場に響く。
「まずは謝罪をさせてください。この度の神託を伝えるべきではありませんでした」
緊張した空気が一気に乱れる。階段の下に控えたミゲルは、レンの第一声が謝罪であることに驚いていた。人々を安心させるためにレンは此処にいる筈である。人々を宥め、落ち着かせる言葉が最初に出るものだとばかり思っていた。集まった人々も似たような感想を抱いているのだろう。明確に言語化されない戸惑いの声が、方々から聞こえてくる。
「ラミーの神託を伝えるべきだと判断したのは私です。ですが、それが大きな不安を与えることまで想定すべきでした。悪しき風が何かわかるまで、神託の意味を教会側で考えるべきだったのです」
レンがそこで一度口を閉ざす。しかし誰も口を挟もうとはしなかった。
「……不安に駆られた人々が、仕立屋の一家に襲撃を行ったと報告がありました。ラミーはそれを聞き、酷く心を痛めています。己の神託が皆を惑わせてしまったと。しかし彼女に罪はない。あるとすれば私です」
再び出てきた「罪」という言葉にミゲルは思わず反応した。先ほど、廊下で話していたレンの言葉の意味は結局わからず仕舞いだった。子供の頃にこの街で犯した罪。つまりミゲルと知り合う前後のことに違いない。だがどんなに記憶を掘り起こしても、ミゲルが思い出せるのは屈託無く笑う幼いレンの姿だけだった。
罪を罪と思っていなかったのかもしれない。ミゲルが自分の罪を自覚できなかったように。誰もいなくなったレンたちの住居に足を踏み入れるまで、ミゲルは自分が何をしてしまったのかわかってはいなかった。レンが犯した罪もそれと同じ類いのものではないか。
否、とミゲルの中の酷く冷徹な部分が声を上げた。あれが本当の言葉かどうかわからない。ミゲルが過去にしたことを知っていて、試すためにあんなことを言った可能性もある。事実、その前にレンは友人という言葉でミゲルを試した。罪についても同じかもしれない。ミゲルの罪を知っていると暗に脅して、反応を試した。そう考えることも出来る。
「この度のことは私の罪です。神託とは神の言葉。人が軽々しく扱ってはいけないと、最初に知っていたはずのことを忘れてしまった。責めるのであれば私に石を投げてください」
再び広場が静まりかえった。レンの声は大きくはなかったが、心に響くものがあった。真摯な態度と声質がそうさせているのだろう。
それでもミゲルは念のため、腰に下げた剣に手をかけた。誰かがレンに石を投げるようなことがあれば、即座に動く準備は出来ていた。罪が何であろうと関係はない。ミゲルはレンを護ることだけを考える。
しかし心配していたような事態は起こらなかった。もしかしたら一人か二人は石を投げる準備をしていたかもしれない。だがそれが行動に移されるより先に、一つの声が広場に響き渡った。
「その必要はありません、司祭長!」
ミゲルは声がした方向、広場の門へと目を向ける。誰かが人混みをかき分けて進んでくるのが見えた。赤茶色の髪は殆ど地肌が見えるほど薄く、それを隠すためにいつも被っている帽子も今日はない。顔には皺が多く刻まれていて、それが余計に老けた印象を与えるが、まだ五十歳を少し越えたばかりである。ミゲルはそれが誰かよく知っていた。
「クイルタ司祭」
レンが驚いた様子でその男の名前を呼ぶ。
スヴェイが輔祭として従事する司祭。今は誰もいなくなった仕立屋を、更なる暴動や犯罪から守るために向かった筈の男は、どういうわけか頭皮まで赤く染めて怒りを滲ませていた。その気迫に押されて皆が道を空ける。クイルタは歩調を変えぬまま奥まで進んでくると、何の迷いも無く壇上へと上がった。
「どうしたのですか。そのように興奮しては……」
宥めようと口を開いたレンに対して、クイルタは煩わしそうに右の手首から先を振り回す。
「良い。良いのです。司祭長。これで興奮しないほうが神への冒涜というものでしょうから」
「何があったのですか? 貴方は仕立屋に向かった筈では」
「えぇ、行きましたよ。スヴェイには日頃から役に立ってもらってますしね。少しでもそれに報いるのが義務というものでしょう。しかし行かねば良かった。そこで私は一つを得て、一つを失ったのですから」
クイルタはそこまで一気に言い切ったが、呼吸をするのを忘れていたらしく、苦しそうに肩を上下させた。感情のまま喋り続けているとしか思えない様子に、レンの整った眉が中心に寄せられる。
「要領を得ませんね、クイルタ司祭。ここは神もご覧になる広場。何があったのか、皆にわかるよう教えてください」
「勿論ですとも。勿論です。そのために年甲斐もなく走ってきたのですからね。あぁ、思い出しても血が騒ぎますよ。彼の家でこれを見つけた時のことは!」
クイルタは左手に持っていた何かを頭上に高く掲げた。それは革張りの表紙に美しい彩色が施された一冊の本だった。装丁の見事さから、誰が見ても高いものとわかる。ミゲルの位置からは本の題名まではわからなかったが、表紙に描かれた太陽と羽に覆われた女神から宗教にまつわる書物であることは容易に想像がついた。
レンの位置からは本に書かれた題名までもしっかりと読める。先ほどまで不審そうに潜められていた眉は、今度は驚愕と共に上に持ち上がっていた。
「神の烙印……。それは、確か」
題名を読み上げたレンに対してクイルタは裏表紙を開いて見せる。恐らくそこには蔵書印、つまりそれが誰のものか示すための印がついていると思われた。ミゲルは嫌な予感がして思わず口元を抑える。しかし事態は待ってはくれなかった。
「えぇ、火事で失われた筈の私の蔵書です」
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