8.友を誘いに
それから数日間はレンの姿を見なかった。というより、ミゲルの足が河原から遠のいていた。スヴェイやアンテラとは祭りの計画を進めていたが、あの日以来、レンの家族に関する話は何かのタブーのようになっていて、少しでも話が出そうになると三人とも不自然なまでに話題を切り替えていた。あの日のような言い争いにも近いことが再発することを、全員が恐れていたためである。幼い頃からの友人を、そんなことで失いたくはない。まして真偽も定かで無いことを興味本位で話していたと大人達に知られれば拳か言葉で叱責されるに決まっていた。
子供は純粋清らかでなくてはならない。大人の言いつけに背いてはならない。
それがミラスマ教の教えの一つであり、どの家でもなるべく実践されていることだった。年頃になって親に反抗するようになると、親はそれを大人になった証だとして接し、子供として扱わなくなる。ミゲルはこれまで何度か近所の人が「遂に息子も反抗的になってね」と満面の笑みで語る姿を見ていた。
しかしまだミゲル達は子供である。この年で大人に反抗するほどの勇気もない。結局、大人への畏怖と友人への配慮から、ミゲルはわざと河原に行くことを避けてしまっていた。だが、その日の朝は違った。窓から差し込む朝日に祈りを捧げながら、ミゲルは幼い胸中で色々なことを考えていた。そして朝食を済ませた後に、相変わらず下の弟二人に苦戦している母親に出かけることを伝えた。
「夕方までには戻ります」
母親はそれを聞くと首を傾げるような仕草をした。実際にはやや頭を傾いでから、髪のほつれが気になったのかそちらに手を添えてしまったので、頭髪の手入れをしているようにしか見えなかった。
「どこに行くの?」
「友達のところです」
「スヴェイのところもアンテラのところも、今日は忙しいでしょう。遊ぶなら外で遊びなさいね」
「はい、わかっています」
祭りは明日に迫っていた。どこの家も準備に慌ただしくしていて、往来にはひっきりなしに荷馬車が行き交っていた。特に客相手の商売をしている家などは、供物となるものがそのまま客からの評価に直結してしまうため、かなり気合いを入れている。しかしその一方で普段の商売もしないといけないことから、どこも血気迫った雰囲気に満ちていた。
肌を容赦なく刺すようなその空気を、ミゲルは決して嫌いではなかった。それはミゲルの家が商売をしていないためかもしれない。恐らく友人二人にそう言えば、即座に否定が返ってくるのは予想がついた。
「お祭りの日は、お小遣いをあげますからね」
母親は優しい表情で言った。それを聞いた弟達が口々に何か騒ぎ始める。弟たちはまだ三歳と五歳で、小遣いの意味もよくわかっていないが、母親の口ぶりから兄だけが何か良いものをもらえることに気付いたようだった。
「去年より少し多くしましょうね。家の手伝いをよくしてくれたから」
「長男だから当然です」
「あらまぁ、頼もしくなって。今日は夕方に雨が降るようだから、気をつけるんですよ」
「はい、母上」
母親は弟達の世話に追われながらも、ミゲルのことも大事にしてくれていた。というよりミゲルは幸いなことに、これまで誰かから疎まれたりすることもなければ嫌われることもなく生きてきた。
それ故にミゲルは、自分のことを正しい人間だと思っていた。そして自分の周りにいる大人達も正しい存在で、そこに何かの間違いなんて一つも無いのだと思い込んでいた。それがあまりに傲慢で幼稚な考えか悟るには、ミゲルの世界は狭すぎた。
家を出ると、なるべく誰にも会わないようにしながら川へと向かった。途中、どうしてもすれ違う人の前では、己の姿が印象に残らぬように敢えてゆっくりと歩いた。そうして時間を掛けて河原に出た時には、太陽の位置は随分と高くなっていて、慣れない動作のために体は早くも空腹を感じ始めていた。
河原には誰も居なかった。遠くでサギが白い両翼を広げて空を舞うのが見える。川はいつものように静かに流れていて、その川底には魚が泳いでいるのが見えた。ミゲルは近くの木の下に座り込むと、上流の方を見据えながら口を開いた。
「一緒にお祭りに行こう。……いきなりだと変かな」
それはレンに会った時の予行練習だった。
「美味しいミルクを飲みに行こう、だと子供みたいだよね。……子供なんだけど」
聖花祭にレンを誘うための言葉は、どうしてもどこかわざとらしい響きを持っていた。それはミゲルの中にあるレンへの想いが、自覚はないながらにあふれ出しているためとも言えた。
辛うじて知っている、所謂「お誘い」の言葉を並べて考えたり、大人の真似事のような言葉を使ってみたりしたものの、どれもしっくり来なかった。古くからの友達相手なら、ぶっきらぼうな物言いも出来る。だがミゲルはレンにそんな乱暴な口を利きたくはなかった。
「こういう時にいい言葉が思いつけばいいんだけどなぁ」
立てた膝に顎を乗せ、短い溜息を吐く。いっそのこと向こうから申し出てくれればいいのに、という想いが胸の中に生まれる。そうすれば何の迷いも無く首を縦に振ることが出来るし、今感じている気恥ずかしさもなくなる。
しかしすぐに思い直して、その考えを胸から振り落とした。そんなことを考える自分が情けなくて仕方なかった。それを後押しするかのように、レンが口にした「格好いい」という言葉が脳裏を過る。誰でも無いレンからの言葉だからこそ、それは大きな意味を持っていた。出会ってから一ヶ月も経っていないというのに、ミゲルはレンがずっと前から自分の傍にいたように感じていたし、これからもずっと傍にいてくれるような錯覚を得ていた。
「ミゲル」
不意に自分を呼ぶ声が、ミゲルを現実へと引き戻した。膝の上から顎を離して視線を上げると、レンが笑顔で立っていた。
「久しぶりだね」
「あぁ、うん、その……色々あって」
ミゲルは我ながら間抜けだと思う返事をして、レンはそれを可笑しそうに笑った。
「今日も一緒に遊ぶ?」
「うん」
即座に答えてしまってから、ミゲルは少し後悔した。祭りのことを切り出すタイミングを失ったことに気付いたためである。だが同時に安心もしていた。レンにどうやって誘いをかけるか、まだ考える時間がある。出来るだけさり気なく、そして回りくどくも無く誘うための言葉がどこかにあるはずだった。
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