2.思わぬ任命

「ご苦労。頭を上げなさい」


 厳かな声に従い頭を上げる。齢七十になるカディル僧正は堅実に生きてきた人生がそのまま皺と一緒に刻み込まれたような優しい顔をしていた。前に姿を見たのは騎士入団式の時で、もっと遠くから一瞬視界に入っただけだったが、その時から感じていた印象と寸分違わない。


「そなたにミラスマの加護を」


 カディルは祈りを捧げて労を労うと、椅子へと腰を下ろした。数秒ほど黙り込んだあとに、ミゲルの方を見て口を開いた。


「そなたの父、ユージンは息災か」

「はい、騎士団長の地位をお返ししてからも街の自警団で子供達に剣術を教えています。昔の堅さが嘘のようです」

「それは良いことだな。そなたの父は堅物過ぎる」


 老僧正は少し顎を持ち上げるようにして笑った。笑うと目尻の皺が一層深くなり、目の位置も殆どわからなくなる。ミゲルはそれを見て思わず口元を緩めたが、相手が誰だか思い出すとすぐに表情を引き締めた。


「陛下、遠征のご報告を」

「あぁ、それなら不要だ。同行していた書記官がまとめているだろうからね」


 カディルはミゲルの言葉を押しとどめた。驚いたミゲルは目を何度か瞬かせる。


「それはあくまで口実。騎士団が全員いては話しづらく、かといって本当の要件を伝えるには少々時が早かった」

「どういう意味でしょうか? 私に何か問題でも」

「そうではない。そうではないのだ、ミゲル」


 不安の色を見て取ったのだろう、カディルは幼い子供を相手にするような優しい口調で続けた。


「寧ろそなたに何の問題もないからこそ、此処に来てもらったのだよ。何しろこれは誰にでも任せて良いような類いの話ではないからね」


 ミゲルはますます意味がわからなくなり、眉間に深い皺を刻んでしまった。だがカディルはそれを気に留める様子もない。否、無視をしているわけではないのだろう。己の言葉を伝えることが最優先だとわかっているに違いない。口元の皺がほぐれ、一度真一文字に結ばれたあと、その言葉は放たれた。


「そなたを騎士団長に任命する」

「は?」


 その言葉にミゲルは反射的に立ち上がってしまった。ここに父親がいれば即座に膝裏を剣鞘で叩かれても文句は言えない。だがカディルはミゲルの反応を面白がって見ているようだった。


「ちょ……っと、待ってください。冗談ですよね?」

「儂は冗談は好まない。次の騎士団長はそなただ」

「いや、だって今の団長は」

「ハルスは死んだ」


 思いがけない言葉だった。父親の腹心だったハルスは、ミゲルに対しても容赦はせず、時に厳しく時に優しく指導をしてくれた。遠征に出る前日も壮行会を開いてくれたし、見送りもしてくれた。その時は健康そのものだった。


「どうしてですか? 何か病気にでも罹ったのでしょうか」

「事故だ。いたましい事故であった」


 その時のことを思い出したのか、カディルは声を詰まらせて目を覆う。


「礼拝の部屋の見回りをしていた時に、女神像が倒れて下敷きとなったのだ。真夜中のことで誰も気付くこと無く、朝交代に来た者が見つけたときにはすっかり冷たくなっていた」

「そんな……。なぜ女神像が」


 さきほども見た石像を思い出しながらミゲルは呻くように言った。あれが倒れるなど想像も付かない。それに像には壊れた痕跡も無かった。遠くで見ただけだから実際にはヒビの一つでも入っているかも知れないが、先ほど見た限りではわからなかった。


「台座が破損していたらしい。それが運悪く……。あぁ、こんなことならばあの時言うことを聞いておけばよかった」

「言うこと……?」

「僕が神託を伝えたのです」


 透き通った声が謁見の間に響き渡った。ミゲルがそちらを振り向くと、黒い僧衣に身を包んだ若い男が立っていた。赤い糸で施された月の刺繍は司祭長の証である。ミゲルはそれが先ほど話に出てきた人間だと認識した。


「女神からの神託を僕は僧正陛下にお伝えしましたが、信じて頂けませんでした」

「すまない、司祭長。儂がもう少し先見の明があれば」


 まだ涙が止まらないらしいカディルが聞き取りにくい声で言う。司祭長は慰めるように首を左右に振った。


「あれは僕の言葉に力が無かったためです。陛下が気にすることはございません。しかし、この度の神託は信じて頂けるのでしょう?」

「勿論だ。だからこそミゲルを此処に呼び出した。次の騎士団長に選ばれた男を」

「ありがとうございます、陛下。これでますますミラスマ教は栄えることでしょう」


 状況を理解したミゲルは、驚きを通り越して寧ろ冷静になっていた。神託通りにハルスが死に、そして神託によりミゲルが騎士団長に選ばれた。馬鹿げていると思ったが、それをカディルに直接言えるほど無謀ではない。

 それでも状況に流されるがままであることを嫌い、ミゲルはどうにか口を開いた。


「神託というのは、この方が行ったのですか?」

「その者の腹心たる巫女、ラミーの言葉だ」

「本物の神託かどうかわかりません。僧正陛下は本当に神託を信じておられるのですか?」

「彼らの力は本物だ。既にいくつもの奇跡が起きている」


 カディルはミゲルの抗議を軽く躱した。論ずるまでもないとその態度は語っていた。あるいは涙の流しすぎで疲れてしまっただけかもしれないが、ミゲルは自分の投げかけた疑義がどこかに消えてしまったことだけは理解した。


「ミゲル殿」


 いつの間にかすぐ横まで来ていた司祭長が名前を呼ぶ。ミゲルは相手の顔を見上げ、そしてそのまま固まった。


「神託を信じていただかなくても良いですが、騎士団長の話は受けてくださいますね? 僧正陛下がそれをお望みですから」


 黒い髪の下で琥珀色の瞳が微笑む。十年前と何一つ変わらない笑みがそこにあった。

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