3.信じるべきもの
「待ってください、司祭長」
謁見の間から出たミゲルは、一足先に階段を降り始めていた司祭長の背中を追った。声と音が響き渡るが、そんなことを気にしている精神的な余裕は無かった。
相手は当初、ミゲルの声が聞こえていないかのように淡々と階段を降り続けていたが、最初の踊り場に到達すると足を止めた。ミゲルは急いでそこまで駆け下りる。心臓は早鐘を打ち、視界の端々が明滅していた。
「レン」
どうにか絞り出した言葉は老人のように掠れていた。十年間忘れるように努めていたためかもしれない。ミゲルにとってその名前は一種の禁忌のようになっていて、心の奥底にずっとへばりついていた。無理矢理そこから引き剥がされた名前はどうしようもない懐かしい響きを持っていた。
「レンだよね?」
確認するようにもう一度名前を口にする。最初よりも少し滑らかに発声出来た。相手は少し溜息をついてから振り返る。抜けるような白い肌が天井から差し込む光に映えた。そして赤い唇がゆっくりと笑みの形を作る。
「久しぶりだね、ミゲル」
ミゲルはその言葉に対して何を返せば良いのかわからなかった。十年前に死んだとばかり思っていた相手が此処にいる。何故、どうやって。そんな疑問が頭の中を巡る。だがレンは少しだけ俯いたと思うと、可笑しそうに含み笑いをした。
「なんだか凄い顔してるよ」
その言葉にミゲルは自分の頬を撫でる。しかしそんなことをしなくても自分が青ざめていることは理解していた。
レンは数歩後ろに下がると、階段の手すりにもたれかかった。身に纏った僧衣が衣擦れの音を立てる。先ほど笑顔を見たときには最後に見たときと変わらないと思ったが、こうして正面に立つとその顔立ちは年相応に大人びたものになっていた。長く伸びた睫毛、濡れたような眼差し。子供の頃からあった特徴は幼さという殻を脱ぎ捨てたことにより比類のない美しさに変わっている。肩まで伸ばした黒髪は香油をたっぷりつけているのか艶やかで、それが肌の白さを一層際立たせていた。
「久しぶりに会ったのに、そんな顔されたら僕も困っちゃうな」
屈託のない笑顔を見て、ミゲルの胸の中に一つの猜疑心が湧き上がってきた。レンは自分がしたことを知っているのだろうか。知らないから、十年ぶりに会った友人に対して笑顔を向けているのか、それとも知っていてそれを隠しているのか。後者の場合、ミゲルに向けられているのは笑顔の仮面を被った憎しみかもしれない。
しかしミゲルはすぐにその疑念を胸から振り払った。ミゲルがついた嘘をレンが知る機会はなかった筈である。あの日以来、ミゲルは処刑された人々について触れることを徹底的に避けていたし、父親も友人も取り立ててそれを話題にすることはなかった。たった一人、母親だけが息子の顔色を心配した程度である。
レンは何も知らない。ミゲルはそう信じたかった。
「ミゲルは僕のこと、覚えてた?」
「忘れるわけがない」
それは半分嘘だったが、それでも礼儀としてミゲルは答えた。一瞬、互いの言葉が途切れて、その空白を埋めるように外から花火の音が鳴った。
その音にミゲルは我に返り、そして何より優先すべきだった疑問を思い出す。
「さっきの話は本当なのか? 前の騎士団長が亡くなって、俺が神託で選ばれたっていうのは」
「女神様に誓って、嘘なんかじゃないよ。次の騎士団長はミゲルだ。自分でさっき承諾してたじゃない」
「でも、それを信じろだなんて無理がある」
レンは神託を行ったのは巫女だと言った。だがレンもその巫女も、半年前まではこの街に存在しなかった。言わば「新参者」である二人を僧正陛下がここまで信用するとは思えない。
少なくともミゲルは神託というものには懐疑的だった。ミラスマ教の長い歴史の中で、神託を受けた巫女や司祭の話はいくつも存在するが、それらは総じて天変地異を予知したとか湧き水を探し当てたとかの類いのものであって、身も蓋もない言い方をしてしまえば後世の創作とも言える。護衛騎士である身でそんなことは口が裂けても言えないが、ミゲルは十年前から物事に対して冷めた目で見る癖がついてしまっていた。
「信じられないってこと?」
レンがそう訊ねるので、ミゲルは少し身構えた。仮にも相手は司祭長であり、護衛騎士よりも高位の存在である。今の自分の発言が司祭長に向けて良い物かと問われれば、答えは否だった。
「別に信じなくてもいいよ」
しかし、相手の口から出たのは意外な言葉だった。
「……え?」
「神託というのは人に信じてもらうものじゃないからね。あくまで神のお言葉を受け入れるだけだ。信じられないというのなら、それはミゲルの問題でしょ?」
「つまり、俺が信じようと信じまいと関係ないってことか?」
そう聞き返すと、レンは手すりから体を離してミゲルの方へと二歩踏み込んだ。低い位置から琥珀色の瞳がミゲルを見上げる。
「拗ねないでよ」
「拗ねてなんかいない。俺が言いたいのは」
「ミゲル」
レンはミゲルの言葉を封じて、目を細めた。
「じゃあ僕を信じてよ」
「レンを?」
「僕は神託を聞いた時、確かにミゲルなら相応しいと思った。だから僧正陛下にも申し上げたんだ。だから神託が信じられないなら、僕のことを信じて」
ね? とレンは子供の頃のような笑顔で言った。ミゲルがどう返せば良いか悩んでいる間にレンは体を離し、再び階段を下っていく。ゆっくり歩いているように見えて意外と動きが速いのか、その姿はすぐに階下に消えていった。
ミゲルは暫くその場に佇んでいたが、いつまでも此処にいるわけにもいかないと思い直して歩き出す。行きと同じ道を戻っているだけなのに、先ほどとは全く違う風景に見えた。階段を降りて廊下を進み、礼拝の間まで戻る。そこには騎士達が数人並んで、女神像に祈りを捧げていた。いずれも悲嘆の表情を浮かべているところからして、ハルスの訃報を聞いたのだろう。
「ミゲル」
騎士のうち、一際体格の良い一人がミゲルに気付いて顔を上げた。ミゲルはそちらへと足を進める。男は項まで届く赤茶色の髪を麻紐で束ねていた。遠征中に伸びてしまった髪を早く切りたいと帰路で何度も言っていたことを思い出す。
「僧正陛下のお話は終わったのか?」
「終わったよ」
「陛下が俺たちの遠征を気に掛けてくれるなんて、ありがたいことだ。陛下は何か仰っていたか?」
何か、とは要するに褒め言葉や労いの言葉のことだろう。ミゲルは相手の期待に沿えないことを申し訳なく思いながら溜息を吐く。
「おい、何だよ」
「アンテラ。皆を詰め所に集めてくれないか」
「何だって?」
アンテラの眉間に皺が刻まれる。
「皆疲れてるんだ。それにハルス団長のことで心を傷めている。お前がすべきなのは皆を早く家に帰すことじゃないのか」
幼い頃の裏返った声とは全く違う、低くて落ち着いた声で友人は正論を放つ。ミゲルもそれが一番皆を喜ばせることは知っていたが、そうするわけにはいかなかった。このまま全員を返してしまえば、彼らは別の誰かからミゲルの任命を聞くことになる。そうすれば彼らはそれを不誠実だと感じるだろう。
「頼むよ、アンテラ。どうしても必要なんだ」
ミゲルは相手を見て真剣な口調で言った。するとそれがあまりに真に迫った響きを持っていたためか、アンテラは面食らった表情になり、何度か瞬きをした。だが、どうやらミゲルの想いは伝わったようだった。
「何か言われたのか」
「皆の前で話すよ」
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