5.とある老人の体験
唐突な言葉にミゲルが反応しそびれている間に、アンテラが「上流?」と聞き返した。
「黒いローブを着てさ、上流にあるピトー遺跡の傍で暮らしてるんだ」
スヴェイは自分が新しい話題を持ち込めたことを確信してか、鼻づまり気味な声でもそれとわかるほど嬉しそうに続けた。
ピトー遺跡とは、エスゴーニュにあるいくつかの遺跡の中でも最も目立たないとされるものだった。何しろ遺跡と名はついていても、そこに行って見られるのは半分崩れた洞窟だけである。洞窟の前に後年作られた立派な門があるのが不釣り合いで、より一層遺跡そのものの存在感を薄くしていた。巡礼者が門の方を遺跡と間違えた、という話は年に一度かそれ以上は耳にする。遺跡そのものはミラスマ教にとって重要な意味を持つらしいのだが、その理由をミゲル達は知らなかった。というよりも子供にとっては崩れた洞窟などよりも街の中心に建つ教会のほうが魅力的に見えたし、大人達もややこしい歴史のある洞窟よりも、信仰の象徴である教会を子供に見せることを好んだからである。
「どこか余所から来たらしいんだよね」
「巡礼者か?」
「そういうわけじゃないみたい。僕は見たことないんだけどさ、裏に住んでいるターラ爺さんがこの前会ったらしいんだよ」
スヴェイは一度鼻を啜った。
「ターラ爺さんは上流で釣りをよくするんだけどね、この前釣りから帰る時にうっかり土手から落ちちゃったらしいんだ」
「ターラ爺さんってあの赤い手ぬぐいの人だろ?」
アンテラが口を挟んだ。
「母ちゃんがよく言ってるよ。酒を飲みながら釣りなんかしたら危ないって」
「お酒飲みながら釣りをしてるわけじゃないよ。飲んでから釣りに行くんだ」
「同じだろ」
恐らく庇ったのであろうスヴェイの言葉は呆気なく否定されてしまった。しかし、スヴェイは挫けることなく話を続ける。
「土手は大した高さじゃないんだけど、落ち方が悪くてね。右足首を捻っちゃったんだって。ただでさえ上流って足場が悪いでしょ? 足を怪我したら歩けないのなんて当たり前じゃない」
そこだけスヴェイは得意気に言った。それを聞いた二人は思わず閉口した顔つきになる。スヴェイは話をする時に決めつけるような物言いをすることが多く、同時にそれを否定することを許さないような態度を取る。
今の言葉も、当たり前と断ずるようなものではない。大怪我をしたなら下流も上流も変わらないだろうし、軽い怪我なら足場が悪くてもなんとか歩くことは出来る。しかしスヴェイはそういったことは考えない。
それは勉強が出来る兄の影響かもしれないし、あるいは仕立屋という家業から客の噂話を耳にする機会が多いためかもしれなかった。
「ターラ爺さんが困ってたらね、そこに黒いローブを着た人がやってきて」
「一人で?」
ミゲルが尋ねると、スヴェイは少し考え込んでから首を振った。
「そこまで聞いてないけど、多分一人じゃないかな。どうして?」
「上流に住み着いた人たち、って言ってたから」
そう答えると、スヴェイは可笑しそうに笑った。
「家畜じゃないんだからいつも群れで行動したりしないでしょ。まぁもしかしたら他にも一人か二人はいたかもしれないけど、ターラ爺さんの話には一人しか出てこなかったよ」
「わかった。続けて」
「足を捻ったことを爺さんが伝えると、その男の人……男の人だったんだよ。まだそこまで年は取ってないって爺さんは言ってたけど、あの年齢じゃ怪しいもんだよね。だってターラ爺さん、半年も前のことを「この前」なんて言うんだよ」
アンテラがわずかに笑った。スヴェイはその反応に満足して話を続ける。
「その男の人は、持っていた薬草と包帯でターラ爺さんの手当をしてくれた。かなり手際がよくてね、爺さんは思わず見とれてたらしい」
「医者か何かってこと?」
「と思うじゃない」
その質問を待っていたとばかりに、スヴェイは口角を吊り上げた。それはどこか陰湿なものにも思えて、ミゲルは質問したことを少し後悔した。
「驚くのはここからだよ。なんとその男の人は、爺さんの足首を両手で優しく包み込むと、何かの呪文のような言葉を呟いた。よく母さんがしてくれるような「痛いの痛いの川に流れろ」じゃないよ。もっとちゃんとした呪文」
「ちゃんとした呪文ってなんだよ」
流石に引っかかったのか、アンテラが尋ねると、スヴェイは少し困った顔になった。その質問は想定していなかったらしい。ミゲルはその反応を見て、スヴェイが誰かから聞いた話をそのままなぞっているに過ぎないことを悟った。
「ちゃんとした呪文はちゃんとした呪文だよ。導きの書とかに書いてあるような」
「だからその中のどれだよ」
「そんなの知らないよ」
スヴェイがそう認めると、アンテラは満足そうな表情で矛先を収めた。少し失速した話を、それでも語り手の少年は己の義務であるかのように続ける。
「……呪文を唱え終わると、男の人は爺さんに「これで立って歩けると思いますよ」って言った。爺さんがそんな馬鹿なと思いながら立ち上がると、さっきまで腰まで刺すような痛みがあったのが、殆ど無くなっていたんだって」
此処が本来、スヴェイが話したかった箇所に違いなかった。しかし直前のアンテラの指摘により、いまいち盛り上がりに欠けてしまっていた。居心地悪そうにスヴェイは二人の顔を交互に見る。
「どう思う?」
「呪文を唱えたら、痛くなくなったってこと?」
ミゲルが確認のために問うと、スヴェイは首を何度か上下に動かした。
「でもその前に手当してるんだよね。それこそ、「痛いの痛いの」みたいなものだったんじゃないの? 余所の言葉だからわからなかっただけで」
「いやいや、そんなんじゃないんだって」
少々憤りを声に交えながら、スヴェイが主張する。思った通りの反応を二人から得られなかったためだろう。どうにかして自分の話を認めて貰おうと躍起になっているようだった。
「あんなのは気休めみたいなものじゃないか。その男の人が唱えたのは違うんだよ」
「なんでわかるんだよ」
アンテラが笑いながら聞き返す。
スヴェイの話の癖は二人ともよく知っていた。余所で仕入れた話をまるごと信じ込み、聞いた内容そのままに誰かに伝えようとする。だから見もしないことを決めつけるような言葉を使ったり、曖昧な表現のまま話を進めてしまう。少し前には「僧正陛下が広場で昼寝をしていた」なんていう誰が聞いてもおかしな話を信じ込んで吹聴していたこともある。だからこそ二人は、この話もそういった類いのものだろうと思っていた。
「お前が足捻ったわけじゃないんだろ」
「そうだけど、でも確かなんだよ。ターラ爺さん、そのまま逃げ出してうちの店まで走ってきたんだから!」
少し語気を強めてスヴェイは言った。
「逃げ出した?」
話の流れとはあまりに不釣り合いな言葉に、ミゲルは首を傾げた。足を捻って、通りすがりの人に手当をしてもらって、なぜ逃げ出すのか。何かの言い間違いではないかと、そう言おうとした時、スヴェイはそれを拒絶するかのように口早に続けた。
「そうだよ。だって気味が悪いじゃないか」
その声にはあからさまな嫌悪が含まれていた。
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