2.水切り遊び

 大聖堂の鐘が鳴り響く。エスゴーニュの街並みはそれをただ粛々と聞いているかのように静かだった。

 ミゲルはいつものように祈り用の小窓の前に家族と共に膝をつき、両手を胸の前に置く。しばらくの沈黙の後、右の頭上から厳かな声が聞こえて来た。


「女神ミラスマよ。今日も愛すべき家族とその隣人のために朝が来たことに感謝いたします」


 父親の祈りの声を聴くのが、ミゲルにとっては朝の象徴だった。

 復唱しながら頭を少し下げ、小窓から差し込む光を浴びるような姿勢となる。ミラスマは太陽を司り、朝の祈りを捧げるものには祝福をもたらすとされていた。この時間、エスゴーニュに住む者は、一部の例外――例えば病人や赤ん坊などを除いては、皆同じように祈りを捧げることとなっていた。

 祈りが終わり、ミゲルが目を開くと小窓の向こうに太陽が見えた。周囲より少し小高い場所にあるミゲルの家の祈り窓は、他の何にも邪魔されることなく太陽を覗くことが出来る。


「祈りが済んだら食事にしなさい」


 父親がそう言った。その言葉は、父親が食卓を共にしないことを示している。


「父上はお仕事ですか?」

「あぁ。今日は東から教主様にお会いになる使者が来るんだ。だから早く行かないとな」


 ミゲルの父であるユージンは茶色い顎鬚が生えた頑丈な顎を動かしながら言った。背は高く、肩幅も広い。その堂々たる体躯を包む白銀色の鎧には、ミラスマ教の刻印が刻まれている。ユージンは教会を守る護衛騎士団の隊長であり、司祭に準ずる地位を持つ信者でもあった。

 父が護衛騎士であることは、一族の誇りだった。ミゲルはいつか父親のようになることを夢見ていたし、周りもそれを期待していた。勿論、護衛騎士になりたい子供は山ほどいる。あの美しい装飾を施された馬に跨り、白銀の鎧を輝かせ、儀式の最前列に並びたいと夢を見る。その殆どはただの夢で終わるが、彼らと比べればミゲルはまだ現実的なものとしてその望みを持っていた。

 父を見送り、朝食を済ませた後、ミゲルは庭へと出た。さして広くはないが、母親の趣味で様々な薬草や花を植えてあるために華やかに見える。背の高いアーゲン草に隠れるようにして置いてある水瓶の方へ近づくと、木の柄杓を使って水を一杯分掬い上げた。


「ミゲル?」


 水瓶のすぐ近くにある窓から母親の声がする。


「駄目よ、水を無駄にしては」

「違います、母上。出かける前に顔を洗おうとしただけです」

「顔ならさっきも洗ったでしょう。スヴェイやアンテラに会うのに、そんなに顔を綺麗にする必要があって?」


 ミゲルは途端に恥ずかしくなって水を瓶の中へと戻す。少し濡れた手を服の裾で拭ってから、急いでそこを後にした。

 母親の指摘は正しかった。これまでミゲルは遊びにいくために顔を洗ったことはない。よく一緒に遊ぶ友達だって似たようなものだった。何故そんな気分になったかと言えば、理由は一つしか思いつかない。

 曲がりくねった道を駆けるように下りながら、ミゲルは川を目指していた。逸る気持ちを抑えためにわざと立ち止まったりすることを繰り返しながら、それでも足取りは軽かった。家が疎らになり、道は林の手前で消える。落ち葉と濡れた土を踏みつけて、ミゲルは河原へとたどり着いた。

 エスゴーニュに寄り添うように流れる大きな川は、本来は「聖ファーティの洗礼川」という名前がついている。だがその名を呼ぶ者は酔狂な詩人か、背伸びをした子供くらいしかいない。ミゲルを始めとした多くの者は「ファーティ川」と呼んでいて、他の地域の人間でもその呼称で通用する。


「ミゲル」


 広い河原の中に、黒い影が立っていた。ローブを風に揺らしながら、そのゆったりとした袖から出た細い白い腕を大きく振っている。ミゲルはそれを見て笑顔を浮かべた。河原を横切り、相手のいる場所まで歩み寄る。


「おはよう。早かったね」

「今日は朝から、家の手伝いがあったんだ」


 レンは手を下げながら言った。


「早く終わったから、急いで来ちゃった」

「手伝いって?」

「庭の手入れとか。薬草育ててるから」


 薬草を育てる家庭は多い。ミラスマの教えでも、それは推奨されている。医者はいるのだが、軽い腹痛や擦り傷程度は家にあるもので治療すべきというのが常識的な考えとされていた。レンの家もそうなのだろう、とミゲルは自分の家の庭を思い出しながら納得する。


「今日は何して遊ぶ?」


 無邪気に問いかけるレンは、最初に会った頃と比べると屈託なく表情を浮かべるようになっていた。あれから何度か会い、一緒に遊ぶようになったが、ミゲルはレンのことをあまり深くは知らなかった。といってもそれ自体は特別なことではない。子供にとっては友達というのは「好きか嫌いか」の極端な感情によって振り分けられるものであり、個人の背景のことなどは二の次となる。

 今のところレンについてミゲルが知っているのは、川を上った先に住んでいること、両親を始めとした大家族で暮らしていること、肌が抜けるように白いこと、石を使った水切りが得意なことぐらいだった。


「水切り教えてよ」

「ミゲル、下手だからなぁ」


 揶揄うように言いながらも、レンは川の方へ歩き出す。川の水面は美しく輝いて、向こう岸との境界線を曖昧にしていた。その中で黒いローブの一挙一動はよく目立つ。河原の石に目を凝らしながら歩いていたレンは、ある一か所で立ち止まるとその場にしゃがみこんだ。


「なるべく平たいのがいいんだ。あと、手でしっかり握りこめる大きさのもの」

「大きい方が飛ぶんじゃないの?」

「それだと安定しないよ。このぐらいのほうが……」


 レンは平たい形状の石を拾い上げると、それを一度手に握りこんだ。しかし、ふと気付いたようにミゲルの方を振り返り、視線を少し下に下げる。


「でもミゲルの手は俺より大きいかな」


 そう言ったと思うと、突然レンは手を伸ばしてミゲルの右手を取った。自分の右手をその上に重ね、何度か位置を変えながら親指の付け根を揃える。ミゲルの手は決して同年代と比べても大きいというほどではなかったが、レンの手はそれより一回り小さかった。


「ほら、関節一つ分も大きい」


 開いた指の隙間でレンが笑う。ミゲルは笑い返して手を離した。さっき洗ったばかりの手が汗ばんでいるのを隠すように、足元に転がっていた石を拾う。灰色の楕円形をした石は縁のほうが薄くなっていて、手で握りこむとわずかに冷たかった。

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