第一章 少年期

1.少年たちの出会い

 夏の日差しが降り注ぐ川辺に、焚火が一つ灯っていた。火の中で時折、木の皮が爆ぜる音が聞こえる。

 茶髪の少年は、まだ幼い顔を少ししかめながら火の中に枝を投げ入れて、それを段々と大きくしていった。十歳になったばかりにしては、非常に慣れた手つきをしている。やがて十分な火力が得られると、眉間に入れてた力を抜いて、焚火の向こう側に視線を投げる。


「服脱いじゃいなよ。風邪引くよ」


 火の向こうに立ち尽くしていた黒髪の少年が、小さく頷いた。茶髪の少年と同じぐらいの年頃だったが、少し背が低くて体つきも華奢だった。

 夏だというのに黒いローブを着こみ、しかもそれは川の水をたっぷりと吸い込んで濡れていた。暑苦しいような、それでいて寒々しいような、曖昧な姿をした少年は頷いた割りになかなかそれを脱ごうとしない。


「ねぇ、風邪引くって」


 茶髪の少年は呆れたように言葉を重ねる。黒髪の少年は、そこでようやく手を動かした。濡れたローブの腰ひもを取り、水を吸い込んだ布を肌からゆっくりと引き剥がす。その下から現れた肌は水気を帯びて、雨上がりの大理石のように艶やかだった。

 茶髪の少年はそれを見て、眩いものでも見るかのように目を細めた。何となく視線を逸らすと、手元にあった草を引き抜いて、意味もなく火の中へと投げ入れる。青々とした草は火に嬲られて、瞬く間に灰と化した。

 ローブを脱いだ少年は、今度は水浸しの衣服を持ったまま立ち尽くす。その様子に、茶髪の少年はわざと苛ついた声を出した。


「君、濡れたものをそのまま持っているつもり? 木に引っ掛けておきなよ。今日みたいな日にはすぐ乾くからさ」


 二人の上に覆いかぶさるように生えている木を指さして言えば、素直にローブはそこにかけられた。しかし、干すというよりは引っ掛けたにすぎない状態を見て、茶髪の少年は溜息をつく。

 焚火から離れて立ち上がり、だらしなく引っ掛かっているローブを手に取ると、それを両手で広げてから勢いよく上下に振った。布に浸み込んでいた川の水が周囲に水滴となって飛び散る。それを数回行ったあと、枝から枝へ渡すようにローブを干し、元の位置へと戻った。


「ありがとう」


 黒髪の少年がそう呟く。茶髪の少年は驚いて目を見開き、それから笑みを浮かべた。


「よかった。喋れないのかと思った」

「ちょっと、ビックリしたから」


 まだ声変わりしていないことを考慮しても、鈴のように軽やかな声が答える。瞳の色は琥珀の輝きだけを集めたかのようで、それを縁取る睫毛も長い。


「まぁ、溺れかけたらビックリするよね。僕がいたからよかったけどさ。名前は?」

「……レン」

「僕はミゲル。君、この辺りでは見かけないけど何処から来たの?」


 レンと名乗った少年は、長い睫毛を揺らすようにして目を開き、それから川の上流を指さした。うねりながら流れる川の先は草木と岩場に遮られて何があるのか視認することは出来ない。


「俺、最近この国に来たばかりだから道に詳しくなくて。それで色々な場所を歩いていたら川に落ちたんだ」

「気を付けたほうがいいよ。夏だから良かったけどさ、冬に落ちたら死んじゃうから」

「死んじゃうの?」

「って、町の大人たちは言ってる」


 その言葉にレンが首を少し傾げたと思うと、焚火越しに初めてミゲルに視線を合わせた。


「見たことある?」

「何を?」

「死んだ人」


 子供らしい好奇心による問いかけだった。ミゲルはその短い人生の記憶を辿るかのように一瞬考えこんだ後に、首を横に振った。


「まだないよ。広場には子供は近寄れないし」

「広場って、何?」

「あ、そうか。越してきたばかりだもんね」


 説明しようとして、ミゲルは川の土手の向こうに目を向けた。離れた場所に青白い三角錐の物が見える。それはこの町、否、この国の中心に立っている巨大な教会の持ついくつかの屋根のうち、最も大きくて美しい物だった。陽光を浴びて輝く姿は、まるで大きな槍のようにも見える。すぐ傍まで行けば屋根を支える塔に刻まれた見事な彫刻も見ることが出来るが、河原からはどう足掻いても屋根の一番下までしか見えない。


「あれが「ミラスマ大聖堂」。僧正陛下のいらっしゃる場所だよ」

「この国で一番偉い人でしょ? それは知ってる」


 レンは少し微笑んだ。


「ミラスマ教、だっけ。俺はよく知らないけど」

「僕も。子供のうちは教会にはめったに行かないし、司祭様の話も難しいもんね」


 ミゲルはそう言って同意を求めた。しかし、レンの返事はない。戸惑うような表情を見て、ミゲルはきっとレンは教会もない場所から来たのだと解釈した。そして、それに思い当たらずに不躾なことを言った自分を恥じた。


「ひ、広場ではさ、異教徒の尋問が行われるんだ」


 恥じる気持ちを隠すように、ミゲルは話を切り替えた。


「この前は僧正陛下の命を狙った異教徒が、尋問の末に処刑されたんだ」

「……処刑?」


 レンの表情が少し強張った。


「異教徒というだけで処刑されるの?」

「まさか!」


 その突拍子もない言葉に、思わずミゲルは声を上げて笑った。


「野蛮な未開の民じゃあるまいし。僧正陛下や教会に危害を加えようとした者だけだよ」

「だよね……。びっくりしちゃった」

「昔はそういうこともあったみたいだけどね。でも未だに僧正陛下の命を狙う奴が多いから、広場では何度か処刑が行われているんだ」


 処刑が行われる日は、街に住む大人たちがこぞって見学に向かう。ミラスマの教えにより子供たちは見学を許されないため、ミゲルたちは広場で行われていることを想像することしか出来ない。

 近所に住む女たちが、いつ買ったとも知れない派手な色の紅を引いて広場へ出かけるのを、物陰から見て脇腹を小突き合って笑う。それが子供に与えられた最大の権利だった。


「広場は行けないけど、祭事場には年に一度だけ入ることが出来るんだ」

「祭事場には何があるの?」

「そこでお祭りがあるんだよ。聖花祭って呼ばれてて」


 聖花、という単語をミゲルは少したどたどしく発音した。宗教関係の言葉は、子供にとっては難しい。


「次の下弦日なんだ。綺麗な花が沢山見れるから行った方がいい」

「そうなんだ。母さんに頼んで連れて行ってもらおうかな」


 その時、遠くからレンを呼ぶ声がした。川の向こう岸で、黒いローブを身にまとった背の高い女が声を張っている。レンはそれを聞くと慌てて立ち上がった。下履きだけ身に着けた体が真っ白な残像をミゲルの視界に焼き付ける。


「母さんだ。戻らなきゃ」


 そう言って、レンは木に引っ掛けた衣服を手に取った。まだ完全に乾ききっていない袖に腕を通し、雫の落ちる裾を翻す。腰紐を結ぶ時に残っていた水滴が飛んで、焚火の中へと消えていくのをミゲルは何となく目で追った。


「ごめんね。ありがとう、ミゲル」

「大したことはしてないよ。困った人は助けるように。それがミラスマの教えだからね」

「それでも君がいなかったら、俺は今頃溺れ死んでたよ」


 レンは再度礼を述べると、川の向こうで呼んでいる女に手を振り、自分の所在を知らしめた。軽やかに駆け出すその背中を見て、ミゲルは思わず呼び止めていた。

 何を思って呼び止めたのか、幼い少年にはそれを正確に理解することは出来なかった。しかし、そうしなければ後悔すると、本能が告げていた。


「何?」


 怪訝そうに振り返ったレンに、ミゲルは一瞬だけ迷った後に口を開いた。


「また……会えるかな?」


 レンはきょとんとしたようだったが、すぐにそれを笑みの向こう側へと押しやった。


「うん!」


 黒髪の奥で琥珀色の瞳が笑う。太陽を反射して輝く水面を背にして、レンの笑顔は美しく鮮烈にミゲルの心を突き刺した。

 走り去っていくレンを見送りながら、ミゲルは初めて抱く胸の高鳴りを抑えようと、小さな手のひらを胸に重ねる。それの正体を知るのは先のことで、取り返しのつかぬ悲劇が二人を引き裂く時のことだった。

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