34.愛と憎しみと
ミゲルは安堵を混ぜた声を出した。レンは扉の前にいて、驚いたようにこちらを振り返っていた。先ほど巫女が言っていたように顔色が悪い。
「ミゲル。……どうして来たの?」
レンが警戒するように問いかけた。その右手には短刀が握られている。絨毯の上にはその短刀を隠していたのであろう布が塊になって落ちていた。
「あんなことを聞かされて、黙って見ているわけにはいかないだろ」
「僕を捕まえに来たの? 護衛騎士として」
「違う。止めに来たんだ」
ミゲルはレンの前まで近づき、短刀を渡すように促した。だがレンは壁に背を付けて首を左右に振る。
「ミゲルには、わからない。僕の気持ちなんて」
「でもレンが罪人になることはない」
「こうでもしないと、僕は僕の家族に償えないんだ。それを思い出させてくれたのはミゲルじゃないか」
「だから俺が止めるんだ」
寝所の向こうは静かだった。二人のやりとりに気付いた様子もない。カディルは高齢だし、この階は他に比べて壁も天井も堅牢な作りになっている。少しぐらいの物音は届かないのかもしれない。
「頼む。こんなことは止めてくれ。レンが誰かを憎みたいなら、俺が代わりになるから」
その言葉に、レンは口角を右端だけ歪めた。
「なにそれ」
「レンのことを失いたくないんだ」
ミゲルは大きく一歩、相手の間合いへと踏み込んだ。突然のことに戸惑うレンの右手首を捉えて、その短刀の切っ先を自分へと向ける。互いの髪同士が絡み合い、吐息が頬を撫でた。
「これが俺の身勝手で、レンを更に苦しめることになったとしても。だから俺を憎んで嫌いになって、好きなだけ殴ればいい。気が済むまで蹴って、唾棄すればいい。そうするだけの理由がレンにはあるし、それに耐える覚悟を俺も持ってる」
レンの琥珀色の瞳が揺れる。蒼白な顔色が一層白くなり、本来赤いはずの唇が殆ど紫色に近くなっていた。その唇が震えながら開かれる。
「ミゲルを嫌いになんてなれない」
でも、と俯いて華奢な肩を震わせた。
「それなら僕はどうしたらいいの?」
ミゲルはそれに対する答えを持っていなかった。だが目の前にいる愛おしい者をそのままにしておくことは出来ず、両腕でその体を抱きしめた。まだ川の中にいるのかと思うほど、レンの体は冷えていた。夜の間、何を考えて此処にいたのか。ミゲルはそれを想像するだけで自分の体が切り刻まれる想いだった。
「わからない。でも、それを考える手伝いは出来る。一緒に生きて、一緒に考えよう。何もレンがその手を汚すことはないんだ」
「……一緒にいてくれるの?」
「俺が一緒にいたい」
笑ってしまうほど陳腐な言葉だった。他にいくらでも相応しい言葉はあった筈なのに、それを考えていた筈なのに、いざ口を開いてみればそれらはどこかに消え去ってしまった。腕に力を込め、レンの髪を撫でる。暫くそうしていると、レンが不意に笑った。
「苦しいよ、ミゲル」
「……あぁ、すまない」
慌てて体を離して相手を見る。レンはどこか吹っ切れたような笑みを浮かべていた。
「ミゲルに話したのは失敗だったなぁ」
そう言って、短刀をミゲルの方に差し出した。ミゲルはそれを事実上の諦めと解釈して受け取る。体はあんなに冷たかったのに、ずっと握りしめていた短刀の柄は暖かかった。
「戻ろうか。もう日が昇る。僧正陛下が起きてきたら大変だよ」
「そうだな。行こう」
ミゲルは階段の方に向かって歩き出した。レンもその後に続く。
「昨日は寝てないんだろう? まずはゆっくり休んだ方がいい」
「優しいね。でも僕は大丈夫だよ」
「油断は禁物だ。そんなに体が冷えていたら風邪を引く」
階段に足をかけたのと、レンが背後で声を発したのはほぼ同時だった。
「僕、まだ起きていないといけないから」
刹那、背中に衝撃が走った。思い切り蹴られたのだと理解した時には、ミゲルの体は宙に投げ出されていた。続いて階段に体が落ちて、大きな音を響かせる。幅の狭い階段では体を止めることも叶わず、そのまま踊り場までミゲルは転げ落ちた。
何が起きたのかわからなかった。レンが自分を蹴り落としたのだということ以外には。体中を走る痛みと混乱のせいで、頭が上手く回らない。だが階下から誰かが昇ってくる振動はその全身で感じていた。
「レン様!」
階段を駆け上ってきたのはラミーだった。その背後にはリューミルの姿も見える。しかしその眼差しは、ミゲルを何か薄汚いものでも見るかのように濁っていた。声を出そうとしても、背中を打ったために掠れた息しか出ない。
「ご無事ですか、レン様」
「あぁ、問題ないよ。ラミーの神託通り、陛下のお命を奪おうとする輩を未然に阻止出来た。寧ろ礼を言わないといけないね」
リューミルが倒れているミゲルの傍まで近付き、そこに一緒に落ちていた短刀を拾い上げた。
「リュー、ミル」
どうにかそれだけ声に出したが、相手の目がこちらを向くことはなかった。他にも騎士団の人間がいるようだが、彼らは階段を更に下った先で待機しているらしく、姿は見えない。
「反逆者を捕らえてください」
レンの澄み切った声が冷たく告げた。ミゲルは咳き込みながら、声の方へと視線を向ける。朝日を浴びたレンの顔には赤みが戻り、浮かべた微笑みは少年のように無垢だった。ミゲルはその清らかなまでの姿を見て、たった一言「綺麗だ」と呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます