33.追い縋る
どこで間違えてしまったのかわからない。そもそも正解があったかどうかさえわからなかった。恐らくはずっと昔から何かが間違ってしまっていて、それが今の今まで続いているのかもしれない。
まだ朝日が昇る前にミゲルは教会の中へと入った。昨日、川に入らなければあのまま教会に引き返して一夜を過ごすという選択肢もあったのだが、既にその時間には教会の門は閉じてしまっていた。中に入るには夜番をしている騎士を呼び出す必要があった。騎士団長である自分がわざわざ開門を要求すれば、何があったかと疑われるだろう。そのためミゲルは家に戻り、門が開く時間まで眠れぬ一夜を過ごした。
騎士団の詰所を素通りし、なるべく誰にも会わないようにしながら、司祭や巫女のいる区画に入る。静謐さを保った空間は、突然現れた騎士に対してあまりに余所余所しかった。二階へ昇り、レンの部屋に向かう。ついつい足音を立てて走りそうになるのを抑えた。
昨日のレンのあの言葉は、恨みを向けるべき相手を僧正陛下に定めたことを示していた。そして「やることがある」という言葉。レンはカディルに何かしらの危害を加えるつもりに違いなかった。
「まだだ。まだ間に合う筈だ」
夜の深い時間だと、カディルの寝所の周りには見回りの騎士や巫女がいる。だが朝日が昇ると一時的にその警備が解かれる。太陽が昇るときにそれを一番高い場所で受け止めるのは僧正陛下であるべきだと考えられているからだった。もしレンがカディルを狙うとすれば、朝日が昇る時に違いない。
本来なら誰彼構わず巻き込んで、レンを止めるのが最善手だろう。だがそうすればレンは捕まり、大逆を犯したものとして処刑は免れない。ミゲルはそれだけは避けようと考えていた。スヴェイのこともアンテラのことも救えず、救おうとしていたレンに恨みを思い出させてしまった。このままレンまで失うわけにはいかない。
「ミゲル様……」
レンの部屋の前に誰かが立っていた。短い蝋燭を乗せた質素な燭台が、薄闇の中に真っ白な姿を浮かび上がらせている。ミゲルは一瞬驚いて声を出しそうになったが、寸前でそれを飲み込むことに成功した。
「ラミーか」
「ミゲル様……、レン様を知りませんか」
ラミーの目は充血していて、元々の赤い瞳が大きく見えた。
「いないのか?」
ミゲルは青ざめながら問い返す。巫女は戸惑った表情を浮かべて何度か頷いた。
「先ほど、夢の中で神託を受けたのです。それがあまりに不吉で。なのでレン様を……、でもお部屋にはいらっしゃらなくて……」
興奮している様子のラミーを、ミゲルは落ち着かせるために肩に手を置いた。年相応に華奢な体が小さく跳ねる。
「落ち着いて話してくれ。どんな神託だったんだ? レンに関わることか?」
「……はい」
ラミーはどうにか平常心を取り戻したらしく、涙ぐんだ声を出した。そして一度喉を詰まらせるような仕草をした後にゆっくりと話し始める。燭台を持つ手は細かく震えていて、それに照らされた影も壁の上で小さく揺れていた。
「癒やしの手は血で汚れ、殺戮を行う。神はそれに罰を与える。そういう内容でした」
癒やしの手。それは間違いなくレンを示す言葉だった。自分の悪い予感が当たってしまったことをミゲルは苦い想いで噛みしめる。
「ミゲル様。レン様に何かあったのですか」
ラミーの白い指がミゲルの鎧の上に触れた。しかしその冷たさに驚いたようにすぐに離れる。
「レンは、過ちを犯そうとしている」
ミゲルはそう呟いた。赤い瞳が大きく見開かれる。
「過ち、ですか?」
「僧正陛下に関わることだ」
ラミーの白い顔が、燭台の灯りでもそれとわかるほどに青ざめた。唇を震わせながら、すぐ近くの扉に縋ろうとする。しかしミゲルは二の腕を掴んで引き留めた。
「駄目だ」
「ですが、他の方にも知らせないと」
「そんなことをすれば、レンがまだ何もしていないとしても罪人になってしまう。部屋に戻って大人しくしているんだ。俺がレンを止める」
相手の目を見て、真剣な声で告げる。ラミーはしばらくの間、どうすべきか悩んでいるように見えたが、やがてぎこちなく微笑むとミゲルに祈りを捧げた。
「ミラスマの加護を。私はお二人を信じております」
「ありがとう。きっと君のところにレンを連れ帰る」
短い約束を交わし、ミゲルはその場から離れた。カディルの寝所があるのは謁見の間がある三階より更に先。階段を二度昇った場所にある。建物の構造的には、そこは五階というべきなのだろうが、誰もそんな表現を使ったことはない。陛下のいらっしゃる場所、と言えば子供にも理解出来る。
ラミーと話している間に既に朝日は昇り始めていた。ミゲルは三階に昇り、物陰で息を潜める。暫くすると騎士や巫女が降りてくる。そこにレンの姿はない。どこかに隠れているのだろうか、と考えた時に、すぐ近くを通り過ぎた巫女達が口を開いた。
「司祭長様は?」
「もうお部屋にお戻りになったのではないかしら。随分酷い顔色をなさっていたもの」
「お疲れなのね」
「きっとそうよ」
その言葉にミゲルは身震いをした。昨夜の寝所の見回りにはレンも含まれていた。だからこそレンは「明日」と言ったのだろう。通常通りの見回りを行い、そして皆と降りる振りをしてどこかに身を潜める。そうすれば誰にも気付かれることなくカディルの寝所に入り込める。
ミゲルは口元を抑え、体を硬くした。早く見回りの人間達がいなくなることを、神ではない何かに祈っていた。やがて最後の一人が欠伸をかみ殺しながら二階へと降りていくのを確認すると、素早く飛び出して階段を昇り始めた。朝日が天井から零れて、階段を照らす。ミゲルはその中をひたすら進んだ。少しでも早く、そして少しでも目立たぬように。
階段を昇りきった先は、階下より明るいにも関わらず冷ややかな空気に満ちていた。毛足の長い赤い絨毯で覆われた床、豪奢な彫刻を施された壁や柱。階段の正面には大きな扉があって、それが左右に開いていた。扉の中には廊下が続き、その先にカディルの寝所がある。
「見つけた」
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