32.込み上げる気持ち
「……は?」
レンが呆気にとられた顔をした。
「それって、どういう……」
ミゲルの元に戻ろうとしたのだろう。川の中で一歩踏み出した拍子に、その細い体が大きく揺れた。続けて水しぶきと音が上がる。ミゲルは殆ど無意識に駆け出すと、川の中に入ってレンのすぐ傍まで近寄った。レンは川の中に座り込み、胸のところまで水に浸っていた。倒れた時に髪からなにから全て濡れてしまったらしく、その姿にミゲルは初めて会った時のことを思い出した。
「大丈夫か?」
助け起こそうと伸ばした手を、レンは右手で払いのけた。
「ミゲルが殺したってどういう意味?」
自分の身なりなど全く構わずに、先ほど言いかけた言葉を再度口にする。ミゲルは脛当てと足の間に川の水が容赦なく入り込んでくるのを感じながら、小さく息を吐き出した。
「最後に会った日の夜、レンの家族のことを、というよりレンの家族について噂になっていることを父さんに話した。少し困らせるだけのつもりだったんだ。まさか処刑されてしまうなんて思ってもいなかった」
琥珀色の瞳が限界まで見開かれる。
「どうして」
「レンとお兄さんが話をしているのを見て……嫉妬したんだと思う。俺は……」
月明かりに照らされた水面が輝いている。その中に座り込むレンはこの世の何よりも美しく見えた。それが幼少期、初めて会ったときに感じたものとは全くの別物だとしても、ミゲルはそれを思い出さずにはいられなかった。
「レンのことが好きだったから」
決死の想いで口にした言葉は、しかし思うような効果を生んではくれなかった。レンはぼんやりと口を開いたまま、石像でも見ているかのようにミゲルに視線を向けていた。数秒の沈黙の後に、漸くレンが口を動かす。
「……だから嘘を教えたの?」
その眼差しには、先ほどまであった親愛が消え失せてしまっていた。ミゲルの告白など取るに足らないと、その態度が告げている。
ミゲルはレンの様子を見て、自分が相手にかけていた疑義が的外れなものであったと悟った。レンが十年前のことを知っていると思い込んでいた。その思い込みの上で、レンとラミーが起こしたことを全て「仕組んだこと」だと定義した。自分への復讐のためにこんなことをしていると。だがその思い込みがなければ、疑義は根本から覆る。
しかしミゲルはそこには思い至らなかった。自分と友人達の身に降りかかった災厄を、どうにか払いのけるだけで精一杯だった。レンを信じず、本当のことも告げず、ただ疑惑だけを膨らませていった罰が、今向けられている冷たい眼差しだった。
「噂話は、確かにあった。スヴェイの家の人たちが面白がって吹聴していた。それこそ遊びみたいに。だから俺も、それと同じ気持ちだったのかもしれない。本当に、軽い気持ちで父さんに噂話の存在を教えた」
「……異教徒がどんな扱いを受けているか知っていたのに?」
「レンの言葉を誤解していたんだ。異教徒じゃない、って言っただろ」
「覚えてないよ、そんなの」
レンは冷たく言い切って、水の中から一人で立ち上がった。
「ミゲルが僕の家族を殺した、というよりそのきっかけになった。ミゲルはそう言いたいんだね。それを僕が知っていて、復讐のためにこんな回りくどいことをしているって」
「……そう思っていたんだ」
「ミゲル」
レンが名前を呼ぶ。怒っているわけではなく、どこか哀れむような声だった。
「本気でそう思ってるの?」
「俺は、本当に……」
「そうじゃなくて。ミゲルが父親に告げ口したから僕の家族が死んだ、なんて本当に思っているなら、随分と自惚れてるよ」
相手が何を言い出したかわからず、ミゲルは呆けた顔でその場に立ち尽くす。レンは水に濡れた髪を手で乱暴にかき上げながら溜息をついた。
「子供が言った言葉だけで騎士団が動くわけないじゃないか。それともミゲルの父親は子供に操られるような人間なの?」
ミゲルは首を左右に振った。父親は昔から厳格で、子供にも妥協を許さない人間だった。異教徒かもしれない、という情報を、しかも子供の口から聞いただけで判断しようとはしない筈である。
「そもそも騎士団を指揮するのは騎士団長でも、独断で騎士団を動かしたりしないでしょ」
この前の神託による暴動の時のように、緊急時にはある程度の裁量は認められる。だがその場合はあくまで緊急の処置であることを前提に、民衆を守る行動が選択される。異教徒を捕まえるという行為は、それに該当しない。
「だから誰かが、僕の家族を捕まえて殺すように言ったんだ。騎士団長からそのことを聞いた誰かが。聖花祭の当日でも即刻命令を下せるほど、偉い誰かが」
誰か、は考えるまでもなかった。この国の最高権力者であり、護衛騎士が仕える人間。人の良さそうな皺だらけの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「聖花祭の供物に丁度良かったのかな。陛下にとってはその程度のことだったんだろうね。ミラスマ教徒じゃなければ、慈悲も笑みも与えられない」
突然、レンがミゲルに手を伸ばした。濡れた両腕がミゲルの首と肩に絡みつき、右耳にレンの息が触れる。恋人に睦言でも囁くような甘い声が鼓膜に届いた。
「ありがとう、ミゲル。誰を恨めば良いのかわかったよ」
すぐに体が離れた。レンはそのまま川辺へと歩き出す。ミゲルはそれを追いかけようとしたが、脛当てに当たる水の抵抗により、思うように勧めなかった。
「レン!」
それでも声を張り上げる。既に川辺に戻っていたレンは、濡れた衣服を翻してミゲルを見た。
「じゃあね、ミゲル。明日は少し遅く来てくれると助かるな。やることがあるからね」
子供同士が約束するかのような気安い口調で、レンは手を振る。そのまま去って行くレンをミゲルは必死に追いかけたが、足は思うように動いてはくれなかった。漸く川の中から脱出出来た時にはレンの姿はどこにも無かった。
誰も居ない川辺を見回したミゲルは、途端に恐怖に襲われる。自分は今度は何をしたのか。十年前よりも遙かに深い後悔が体を支配する。レンの中にあった恨みや憎しみを呼び起こしてしまったのかもしれない。またも自分の勝手な気持ちだけで。
「止めないと……」
今度こそ悲劇を起こしてはならない。レンのために、なにより自分のためにミゲルは呟いた。右の耳に触れた息の熱さが、まだ感覚として残っていた。
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