30.川辺の語らい

 声は思いの外よく響いた。レンがゆっくりと振り返る。月明かりの下で白い肌が絶妙な陰影を生み出していて、それが美しい顔立ちを更に強めていた。


「ミゲル」


 名前で呼ばれたから、というわけではないだろうが、レンもミゲルの名を口にして少しだけ微笑んだ。だが心底からというよりは、どこかぎこちなさを帯びていた。

 レンは体を少し右にずらして、もう一人座るスペースを作った。一瞬、どうしようか考えたミゲルだったが、自分が随分と疲労を感じていることに気がついた。抗うのも面倒になって、そのままレンの横に腰を下ろす。


「大変だったね」


 レンが優しい声で言う。鼓膜を撫でられているのではないかと思うほどにその声は近く、そして暖かい。ミゲルは意味も無く込み上げてきた涙を、瞬きを数回することでどうにか堪えた。レンは見て見ぬ振りをしているのか、視線をただ目の前の川へと注いでいた。


「ここで何を?」

「偶に来るんだ。昔、ここでミゲルと一緒に遊んだこととか思い出して。川の流れを見ていると、なんだか安心する」


 そうだ、とレンは少し声を弾ませた。しかし無理をしているのか、声を出す一瞬、息が詰まる音がしたのをミゲルは聞き逃さなかった。


「水切り、上手になった?」

「あれは子供の遊びだろう。もうやってない」

「僕も随分やってないな。教会ではそういうの禁止されてたし。……久々にやってみたくなっちゃった」


 レンは立ち上がると、月明かりの下で河原の石を探し始める。やがてしゃがみ込むと、手のひらに握り込めるほどの黒い平たい石を拾い上げた。ミゲルに背を向けて川の方へと何歩か近付く。


「懐かしいな。ミゲル、本当に下手だったもんね」

「力を入れすぎてたんだ。今ならよくわかる」


 相手が見ていない隙に、ミゲルは再び零れかけた涙を指の背で拭った。

 レンはゆっくり腕を後ろに引き、宙を薙ぐように振るう。風を切る音と共に黒い石が手を離れ、川面へと落ちる。そしてそのまま大きく一度跳ね、二度、三度、四度と続き、五度目で水の中へと沈んだ。


「あぁ、駄目だ。昔より下手になった気がする」

「俺には変わらないように見えるけどな」

「そうかなぁ」


 レンはまた石を探し始めた。ミゲルはそれを見守りながら口を開く。


「話をしてもいいか」

「うん、ミゲルの話なら朝までだって聞くよ」

「……俺は色々なことから目を背けていた気がするんだ」


 ミゲルは静かに切り出す。川で魚が跳ねる音がした。


「スヴェイのこともそうだし、アンテラのこともそうだ。いや、もしかしたら騎士団長になったことすらからも目を背けていたのかもしれない」

「どうして?」

「恐ろしかったんだ。自分を取り巻く環境が変わっていってしまうのが。自分に何が出来るのか、そして何が出来ないのか。そういったことを直視したくなかった」

「誰だってそうだよ。変わるのは怖い」

「でもいつかは向き合わないといけない。どうして前の騎士団長は死んだのか、どうしてスヴェイは追い詰められたのか。そして……どうしてアンテラは死んだのか」


 一度視線を足元に落としたミゲルは、大きく息を吐き出した。もう目を逸らしてはいられなかった。他人への思いやりという皮を被った、ただの自己保身をしていられる時は過ぎ去った。


「これは、レンの仕業なのか?」


 顔を上げた勢いのまま問う。レンは背中を向けたまま答えなかった。足元からまた石を拾い上げて、先ほどよりも滑らかな仕草で川面へ投げる。六回水を叩く音がして、それがミゲルには非常に耳障りだった。


「答えてくれ」

「どうしてそう思うの?」

「告発も暗殺未遂も、全て出来過ぎてる。前騎士団長の死も。そこにはいつもレンと、巫女の神託があった。本当は神託なんか存在しなくて、二人が全て仕組んでいるんじゃないか?」

「あの強風も僕が起こしたって言うの?」

「水や風の動きを読んで予測したんじゃないか。山間に住む人々はそうやって天気を予測すると聞いたことがある」


 レンは背中を向けたまま、右手で宙を払うような仕草をした。続けろという意味だと解釈してミゲルは次の考えを口にする。


「癒やしの力だってそうだ。レンが前に住んでいたところには薬草が沢山落ちていた。きっとレンの家族は、薬の扱いや病気についての知識を持っていた。その知識を利用して、あたかもそれが自分の不思議な力であるかのように振る舞った」


 返答はなかった。ミゲルが一通り話し終わるまで待っているのかもしれなかった。どちらにせよ相手の表情は見えなかったし、ミゲルも話をやめるつもりはなかった。


「クイルタ司祭の家から本を盗み出して、神託に乗じてスヴェイの家を襲撃するように扇動した。神託を頭から信じ込む人は街にいくらでもいる。その何人かを焚きつけるだけで十分だ。そして……アンテラのことも」


 友人の名前を口にするのが、これほど辛い時が来るとは思っていなかった。喉奥から絞り出すように声を紡ぐ。


「地下でアンテラに何を言ったんだ? レンの言葉で逆上して、それであんなことをしたんじゃないか?」


 あの時、止めるように叫んだレンを見て、アンテラはますます激昂した。あれは制止の声に対して怒りを見せたわけではない。他ならぬ原因を作り出した人間に対する怒りだったのだろう。


「なるほどね。それがミゲルの考えなんだ」


 レンが振り返る。感情の読み取れない表情だった。


「やっぱり僕を信じてくれないんだね」

「……信じたかったよ。だから色々なことから目を逸らしてきた。でももう無理だ」

「そっかぁ」


 寂しそうな笑みが顔に広がる。レンは再び背を向けると、川の中に足を入れた。静かな水音が辺りに響く。このあたりはそれほど水が深くない。とはいえ、何歩か歩いて行くとあっという間にレンの膝まで水が届いた。ずぶ濡れの僧衣の裾を持ち上げて、レンは子供が遊ぶように体を揺らして水滴を辺りに飛ばす。


「でもそれってさ、あまりに不確定要素が多すぎるよね。神託のことだって暴動のことだって上手くいく保障なんかどこにもない」

「上手くいくまで繰り返せばいいだけだ。皆が神託を信じている限り、何度だって同じ手は使える」

「そうだね。その通りだ」


 レンがそこで初めて声を立てて笑った。可笑しくて堪らないとでも言うように。ミゲルは耳を塞いでしまいたい気持ちを抑えながら、ある懇願を口にした。


「否定してくれ。俺の考えが間違っていると。それはただの妄想だと」

「どうして? 僕のこと信じてないんでしょ」

「だとしても、否定してほしい自分がいる」

「よくわからないな。じゃあ僕からも一つ質問してもいい?」


 ミゲルがそれに肯定を返すと、レンは「ありがとう」と笑顔を浮かべた。そしてその表情のまま口を開く。


「ミゲルは僕のこと好き?」

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