28.かけがえのない友
アンテラはミゲルに向かって、殆ど突進するように走ってきた。名前を呼ぶ暇すらもなく、その間合いは一気に縮まる。そこで漸く、血走った目が自分ではなくラミーに向けられているのに気がついた。
ラミーが悲鳴を上げて退いた。アンテラが剣を振り下ろしたが、その刃先は彼女が持っていた籠で遮られた。籠はあっさり二つに裂けて、床に焼き菓子や果物が散乱する。
「アンテラ!」
ミゲルは制止するために声を張ったが、相手には聞こえていないようだった。アンテラの頭と視界にはラミーしか存在せず、それに向かってがむしゃらに突き進んでいる。
「アンテラ、やめろ! 何を考えてるんだ!」
それでも再度声を出して体を割り込ませると、アンテラは煩わしそうにミゲルを見た
「邪魔するな!」
「教会の中で剣を抜くな! それだけで懲罰をくらうぞ!?」
「そんなのもうどうでもいいんだよ! 俺はこいつに神託を取り下げてもらうためなら何でもする!」
ラミーが怯えた声を出したのが聞こえた。背を向けてしまっているため表情はわからないが、きっと恐怖に顔を歪ませていることだろう。突然刃を向けられて戸惑わない人間はいない。
「何が神託だ。何が奇跡だ。そうやって人の人生滅茶苦茶にして楽しいのか」
アンテラはミゲルを押しのけようとしながらラミーに向かって憎悪に満ちた言葉を吐く。ミゲルは必死にその体を押さえ、どうやって剣を収めさせるべきか考えていた。
「お前さえいなければ、俺たちは元通りになるんだ。神託なんかくそったれだ。全部、全部、お前のせいだ!」
大声に引き寄せられるようにして、二階にあるいくつもの扉が開き、中から司祭たちが顔を覗かせる。もうこうなっては剣を収めさせたところで罰は免れないだろう。ミゲルはそれでもアンテラを押さえ込もうとしていた。
「ミゲル!」
アンテラに遅れて階段を駆け上ってきたのはレンだった。いつもの余裕を失った表情で、額に汗を浮かばせている。
「その人を抑えて! ラミーが殺される!」
レンの必死な叫びに、真っ先に反応を見せたのはアンテラだった。口角を歪め、目尻が吊り上がる。
「どいつもこいつも……!」
アンテラが怒り任せにミゲルを突き飛ばした。危うく転倒しそうになったミゲルだったが、どうにか踏みとどまる。しかしその時にはアンテラはラミーの方に走り出していた。
「ミゲル!」
レンの声が聞こえた。しかしそちらに振り返る余裕はない。
ラミーは先ほどよりは離れた場所に逃げていたが、向かってくるアンテラを見て足がすくんでしまったようだった。泣きそうな顔で頭を庇うように両手を掲げる。しかし剣を相手にその行為はなんの意味も成さない。
アンテラが何かを叫びながら再び剣を振り上げた。ミゲルは自分の剣を抜く。いつも使っている筈の剣が、この時だけは妙に軽く感じた。窮屈な鞘から解放された剣が宙に翻る。研ぎ澄まされた剣の先が、アンテラの背中に食い込んだ。騎士の鎧の隙間に綺麗に入り込んだ剣は、容赦も躊躇もなく体の中へと飲み込まれる。一瞬だけ、ミゲルの周りから音という音が失われた。静かな世界の中、アンテラの動きが止まる。そして背中から大量の血が噴き出して、ミゲルの頬を濡らした。
音が再び戻ってきた時にミゲルが聞いたのは、アンテラの「なんで」という声だった。続けてその体が床に倒れ込む。背中から噴き上がる血が床に落ちて、焼き菓子を真っ赤に濡らしていく。ミゲルはそれを質の悪い劇でも見ている気分で眺めていたが、やがて自分が何をしたか思い出すと、慌てて剣をその場に投げ捨ててアンテラの傍に屈み込んだ。
「アンテラ! しっかりしろ!」
アンテラの顔からはすっかり生気が失われていた。剣が内臓まで到達していたのか、口から血の色の泡を吐いている。赤茶色の瞳が揺れながらミゲルの方をなんとか見た。
「どうして……止める……」
「なんでこんな馬鹿なことを! スヴェイの傍にいるって言ったじゃないか!」
「巫女を、殺さないと。もう、元に、戻れない」
「ミゲル、彼の怪我を見せて」
レンがそう言って反対側にしゃがんだ。真剣な目でアンテラの様子を観察し、それから血が止まらない傷口に、迷いも無く自分の来ている僧衣の裾を押し当てた。瞬時に赤く染まるのを見て、扉の影から覗いていた誰かが「もう駄目だ」と呟いた。
レンはアンテラの傷口に手を当てる。しかしすぐにそれを止めてしまうと、ラミーの方を見た。
「これは僕の力じゃ間に合わない。部屋から薬を取ってきてくれ」
「は……はい」
返事はしたものの、ラミーはすぐには動かなかった。だがアンテラが苦しそうに咳き込んだ音を聞くと、どうにか足を動かしてレンが使っている部屋へと駆けていった。
「アンテラ、すまない。こんなつもりじゃなかったんだ」
謝罪はもう相手には届いていないようだった。天井を見上げながらうつろな目で荒い呼吸を繰り返すアンテラの右手を、ミゲルは両手で包み込む。急速に失われていく体温を追い求めるように必死で手を擦った。
部屋から戻ってきたラミーがレンに水の入った器と薬草を渡す。レンは水でアンテラの傷口を清め、そして薬草をその中へと埋め込んだ。だがそれがあまり意味を成していないことは、もはや誰の目にも明らかだった。傷口からの出血は止まりかけている。もう血を体に送り出す力も残っていない。
「駄目だ。傷が深すぎた」
悔しそうにレンが呟く。ミゲルはアンテラの体を、血が付くのも構わずに抱きしめた。一瞬だけ右手が動いたようにも感じたが、それ以上は何もなかった。血と薬草の匂いに混じって、微かに焼き菓子の匂いがするのが不気味だった。
抱きしめていた体が急に重くなる。アンテラの命が失われた瞬間だった。ミゲルは動かなくなった友人の顔を見る。苦しそうに顔を歪めたその姿は、アンテラには全く相応しくないように思えた。大事な幼なじみの命をこの手で奪ってしまった。その事実はアンテラの体以上に重くその手に滲みこむ。
「アンテラ……、目を開けてくれ、アンテラ」
揺さぶってみても名前を呼んでみても、何の反応も得られなかった。いつの間にか周りに人が集まって何か話していたが、ミゲルにはそれらの言葉が理解出来なかった。頭の中に様々な感情が浮かんでは沈む。子供の頃からの思い出が血で塗りつぶされていく。ミゲルは顔を伏せて、人目もはばからずに涙を零した。
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