9.あの日のこと

 一歩踏み入れると同時に、微かな甘い匂いが鼻をついた。それは教会でよく使われている香のものだとすぐにわかったが、締め切った部屋で使われているためかいつもより甘ったるく感じられた。

 部屋の広さは詰所の半分以下しかないが、一人に与えられるには十分すぎるほどだった。大きな窓には上等なカーテンが下がり、それを背にした執務用のテーブルの上には書類や高価そうな書物が積み上がっている。その間から微かに見えるインク壺に、真新しい羽ペンが刺さっているのが見えた。

 左右の壁に取り付けられた本棚は天井までぎっしりと本に埋まっていて、そのいずれもが宗教学やそれに関わるものだった。そこに並ぶ本の価値に比べると、部屋の内装はあまりに質素と言えた。歴代の司祭長が大事に引き継いできた部屋であることを考えれば、それも当然なのかもしれない。

 その中でどこか異彩を放っているのは、入口のすぐ左側に置かれた木製の小さいテーブルだった。円形の天板を支えているのは木に絡みついた蛇だった。精密な彫刻は生きているかのようで、部屋の雰囲気にそぐわない禍々しさが感じられる。天板の上に並ぶのは硝子製の水差しとグラスが二つ。何となくミゲルは、それがレンの私物だとわかった。


「ごめんね、急に呼び出して」


 ミゲルから手を離したレンは、その水差しに手を伸ばしながら言った。ミゲルがなんと答えようか考えている間にもレンは構わず話を続ける。


「この前はバタバタしてたし、僧正陛下の前だったからゆっくり話せなかったでしょ? だから忙しいとは知っていたんだけど」

「この時間帯はあまり忙しくない」

「なら良かった」


 水の入ったグラスを手渡された。


「最初に謝っておこうと思って」


 レンが静かに切り出した。どういう意味かわからずにミゲルは間の抜けた声を出す。


「謝る?」

「うん。あの日のこと。お祭りに行けなくてごめんね」


 あの日、とは言うまでも無くレンの家族が処刑された時のことだった。


「知ってると思うけど、それどころじゃなくてさ」

「……レンは、どうして」

「ミゲルのおかげだよ」


 その言葉に、ミゲルは息を飲んだ。だがそれはミゲルが考えるような意味ではなかった。


「僕、とっても楽しみにしてたんだ。だから待ち合わせの時間よりも早く三つ叉路に行ったんだよ。そしたら川の上流に向かって馬に乗った人たちが進んでいくのが見えたんだ。それを見たら怖くなって、近くの草むらに隠れてたんだよね」


 レンは自分のグラスをテーブルに置いたまま続ける。


「隠れている僕の目の前を、父さんや母さんを捕まえた人たちが通っていくのを見た。母さんと一瞬だけ目が合って思わず叫びそうになったけど、母さんは僕を安心させるように微笑んだんだ。それで僕はどうにか見つからずに済んだ。ミゲルとの約束がなかったら、きっと僕も今頃」


 小さな吐息を挟み、レンは苦笑いを浮かべた。


「僕、そのまま隣の村まで逃げちゃったんだよね。だからミゲルとの約束守れなかったんだ。それだけどうしても謝りたくて」

「……気にしていない。というより……死んだと思っていたから」


 右手に持ったグラスの表面の水が細かに揺れる。自分の手が震えているためだと気がついて、左手でさり気なくそれを抑えた。

 レンが謝ることなど何一つないどころか、謝るべきはミゲルの方だった。レンの家族の命を奪い、そしてレンを孤独にしてしまったのは間違いなく自分の所業であり、それは幾千の謝罪を重ねたところで許されることではない。

 ミラスマの教えに従うのであれば、ミゲルが今すべきことは罪を告白して許しを請うことだった。だがミゲルの口や体はどうしてもそれに従おうとしなかった。今、目の前にいるレンから軽蔑の目を向けられて唾棄されることを想像すると、喉は詰まって体は強ばった。


「隣村には父さんの古い知り合いがいてね。僕はその人を頼ったんだ。その人の手引きで西域教会に預けられて、そして司祭になるべく教育を受けた」

「……レンはミラスマ教徒ではなかったんだよな? 抵抗はなかったのか」

「だってこの国で生きるにはミラスマ教に入るしかないじゃない」


 何でも無いことのようにレンは言った。


「父さん達の遺体は処刑場に埋まっている。だから僕はこの国から離れたくなかった。だったら選択肢はないでしょ。別にミラスマ教が嫌いだとか、他の宗教を信じているわけじゃなかったし」

「無宗教って聞いたけど」

「それはさ、宗教ありきの考え方だよ」


 レンはグラスを持ち上げて一口水を飲んだ。


「僕たちの一族は、ずっと昔から世界中を転々としていた。その日の空を見て、風を呼んで、水の温度を手で感じて、そうやって生きてきたんだ。そこには神様も魔物もいなかったし、お祈りなんかより皆で歌う歌のほうが価値があった。宗教なんてそこには必要なかったんだよ」


 必要ない、という言葉にミゲルは反射的に言い返しそうになったが、それをどうにか飲み込んだ。


「神様を否定するわけじゃないよ。でも僕たちには僕たちの生き方があって、それを邪魔されたくなかっただけなんだ。でもこの国では通用しなかった」

「……この国を恨んだりはしていないのか?」

「恨む?」


 レンは意外な言葉を聞いたかのように目を丸くすると、次の瞬間声を立てて笑い出した。それほど大きな声ではなかったが、司祭長という立場からするとあまり好ましい行為とは言えない。


「ミゲルは面白いなぁ」

「ふざけてるわけじゃない」

「わかってるよ。多分ね、僕に一人でも家族が残っていたなら恨むことも出来たと思うんだ。でも僕には誰も残らなかった。悲しみを共有出来る人がいなかった。それになによりも生きなければいけなかったから、恨むとか悲しいとか、そういうの感じる暇がなかったんだよ」


 あっさりとした口調で告げられた言葉は、ミゲルの心に重くのしかかる。まだ恨んでいると言われた方が救いがあったかもしれない。自分が奪ったのは命だけではない。レンから悲しみすらも奪ってしまったのだと思い知らされた。


「だから神託がミゲルを選んでくれたことには感謝してるよ」


 レンは微笑みを浮かべたまま、ミゲルに一歩近付いた。二人の間の空気が動いて、香の匂いが立ちのぼる。


「また一緒にいられるからね」

「一緒にって……司祭長と騎士団長では立場が違うだろ」

「そんなのはどうでもいい。僕にとってミゲルは大切な存在だから。もう一度会いたくて、辛いことがあっても頑張ってきたんだ」


 間近で見るレンの目は、子供の頃よりも深い色になっているように思えた。だがそれは子供の頃は外でしか会わなかったせいかもしれない。ミゲルはそう考えると、自分がレンと部屋に二人きりであることを漸く思い出した。

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