10.指輪の帰還
体の中枢から一気に熱が込み上げて、顔を紅潮させた。それを隠そうとして手を持ち上げたミゲルだったが、グラスの存在を完全に忘れていたために右手から取りこぼしてしまった。グラスが床に落ちて、呆気なく四散する。中に残っていた水がレンの僧衣の裾にかかった。
「あ……、すまない」
「いいよ。別に高い物でもないしね」
レンはその場にしゃがみ込むと、割れたグラスの破片を指で摘まむ。そしてそれをテーブルの上に放るように置いた。
「そういえば、僕があげた硝子はもう捨てちゃった?」
「いや、まだ家にあるはずだ」
「そう。僕ね、ミゲルからもらった指輪失くしちゃった。それも謝っておいた方がいいかな」
「……謝る必要はない」
ミゲルは自分の首に手を添えると、鎧の隙間から覗く革紐を指に絡めて一気に引き抜いた。その先にはあの指輪が、更に古びてはしまったが形を保ったままそこにあった。
指輪を見たレンは一瞬だけ虚を突かれた顔になった後、見る間に破顔する。
「ミゲルが持っていてくれたんだ」
「あぁ。ずっと……持っていたから」
あの日、レン達が住んでいた家から持ち出した指輪はずっと煙草の箱の中に仕舞い込んだままだった。久々にその蓋を開けたのは遠征から戻ってきた日の夜。つまりレンと再会した直後だった。
ミゲルは指輪から革紐を外すと、表面を服の袖で軽く拭った。そしてレンに左手の平を上に向けて差し出す。レンは自分の右手をその上に重ねた。さっきよりも手の温度が高くなっているように感じた。
「返すよ。これはレンのだから」
大人になってもレンの手はミゲルよりも小さくて華奢だった。だがそれでも、子供の時のように中指に指輪を通すことは出来なかった。仕方なく、それよりも細い薬指に指輪を通す。根元までしっかりと指輪を嵌めると、レンはその指輪を慈しむように頬に手の甲を添えた。
「ありがとう」
「別に礼を言われるようなことじゃない」
「それでも嬉しいんだ。ミゲルに指輪を付けてもらうのは二度目だもの」
手の甲を頬に滑らせ、そして指輪が赤い唇に触れる。銀と赤のコントラストに、ミゲルはいけないものでも見てしまった気がして目を反らした。
そしてそのまま、誤魔化すように話を変える。
「癒やしの力は昔から持っていたのか?」
「うん、まぁね。小さい頃は殆ど使えなかったけど。あんなことがあってから、ずっと隠してたけど、人を救える力を使わないのは勿体ないと思って」
「具体的にはどういう力なんだ? 前の司祭長を治したという話は聞いたが」
「病を無かったことに出来るような力じゃないよ。そんなこと出来たら神様だ。僕は人の痛みを和らげ、気分を少し高揚させるだけ。それだけで大抵の怪我人や病人は快癒するんだ。マクヌーヤ様だってそうだよ。痛みを感じなくなってから食欲も戻ってきてね。それで随分回復したんだ」
レンは指輪を口元から遠ざけた。
「僧正陛下の膝の痛みも和らげてあげた。あのお歳だと片方でも痛くなると、普通に歩くのも辛いらしいね。随分喜んでた」
「それで陛下の信頼を得たのか」
脳裏にアンテラの言葉が蘇る。そしてあの日の司祭の忠告も。
レンは本当に不思議な力を持っているのだろうか。アンテラは毒物の可能性を持ちだしていたが、毒と薬は紙一重の存在である。例えばレンが毒物を操ることに長けていたら、その知識を応用して痛み止めを作ることも可能だろう。
子供の頃、レンは「朝から薬草を摘んでいた」と話していたことがあった。住んでいた場所にも薬草らしき物が散らばっていた。元々そういったことに造詣の深い一族だったのかもしれない。不思議な力か、それとも引き継がれてきた知識か。二つの選択肢を前にミゲルが思い悩んでいると、レンが顔を覗き込む仕草をした。
「ねぇ、ミゲル」
美しい顔立ちが優しく微笑む。
「誰かに僕の悪い噂でも聞かされた?」
唐突な言葉にミゲルは固まってしまった。レンはその反応を見て「やっぱり」とどこか楽しそうに呟いた。
「そういう話があるのは知ってる。気にしないようにはしてるんだけどね。それでも疑われるのはあまり良い気分じゃない」
「……そういう話を聞いたのは本当だ。でも俺は鵜呑みになんかしていない。その、どちらの話も」
「いいんじゃない? 誰かの話に頷いているだけなら牛にも出来るもの。でも、ミゲルに疑われるのは僕は嫌だな」
笑顔に少し陰りが差す。
「ミゲルは僕のこと、信じてくれるよね?」
願うような光がレンの琥珀色の瞳に宿っていた。その光を見ながらミゲルは口を噤む。疑うのも信じるのも簡単なことだった。だがどちらかに決めてしまえば、何かを失うような気がして、ミゲルは結局何も答えることが出来なかった。
やがてレンの顔に明らかな失望が浮かんだと思うと、その瞳の光もどこかに消えてしまった。しかし表情だけは笑みを保ったまま、どこか不自然なほどに明るい声を出す。
「変なこと聞いてごめんね。お詫びに美味しい焼き菓子を届けさせるから」
「気にしていない」
「もう一つ聞きたいことがあったけど、今度にしようかな」
「……一応話だけなら」
ミゲルはレンが望む答えを言ってあげられなかった罪悪感から、そう言った。レンの顔に再び純粋な喜びが浮かぶ。
「ミゲルのこと聞きたいんだ。十年ぶりだもの。騎士になった時のこととか色々聞きたい」
拍子抜けするほど害のない質問にミゲルは胸を撫で下ろした。
「いいよ。何から話そうか」
「あ、ちょっと待って。椅子出すから」
先ほどまでのどこか緊張感を持った空気は消えて、代わりに穏やかな空気が満ちてくる。ミゲルはそれに安心しながら、胸の中にある色々な考えを忘れたふりをした。スヴェイの盲信も、アンテラの懐疑も、ラミーの信仰ですらも、今のミゲルには重荷になっていた。
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