34 惑

 午後三時過ぎに偏さんから連絡があり、

「会議で遅くなる」

 と告げられる。このところ偏さんの体調は安定していたから、

「わかったわ。無理をしないで……」

 とだけ返答する。

「遅くても十時には帰れると思う」

「夕ご飯はどうするの……」

「家でいただくよ。尚子さんの顔を見ながら……」

「わかりました。じゃあ……」

「うん、では……」

 スマートフォンをテーブルに置き、ふっと溜息を吐くと気配がある。ぎょっとして振り向くと保坂憲子が立っている。ホッと安心。が、この家には現在わたしと憲子さんしかいない。だから当然だ。

「ラブラブですね」

 特にニヤついた顔もせず、憲子さんが言う。

「イヤね、聞いてたの……」

「いえ、偶然……」

 不意に思いつき、憲子さんに問うてみる。

「ねえ、男性経験はともかくとして、あなたには好きな人はいないの……」

「残念ながらいません」

「そう。でも、あなたのことを好きな人はいるんじゃないの」

 わたしが出任せでそう続けると憲子さんの顔が急に曇る。次いで困ったように、

「まさか、知りませんよね」

 と小声で問う。

「何を……」

「時々お屋敷の外をうろついている男のことですよ」

 話が見えないので訊いてみる。

「この家の周りに誰かがいるの……」

「今度見つけたら、帰れ、って言っておきますから」

「あなたのことを好きな誰か、ってこと……」

「仮にそうならば、はっきり言えばいいんですよ。そうすれば引導を渡せますから……」

「引導って……。つまりストーカーかしら。憲子さんの……。同じ大学の人……」

「好奇心は猫を殺す、と言いますよ」

「今日もいるのかな」

「さあ……」

「ねえ、憲子さん、急に思いついたのだけど、これからわたしと買い物に行かない……」

 実際、急に思いつき、わたしが誘うと、

「尚子さんって、そういう人だったんですか」

 少しだけ目を丸くしながら尚子さんがわたしに答える。

「コックの浜口さんがまだ見えていないから駄目ですよ。それに、この家を浜口さんだけにするわけにはいきません。先生に怒られます」

「それなら仕方がないわね。わたし一人で出かけるわ」

「どちらまで……」

「野川縁でも歩こうか、と……」

 憲子さんにそう返事をし、わたしがソファから立ち上がる。階段を上がり、夫婦の部屋に入り、コートを選ぶ。外の風は弱まったようだが、まだ寒さは厳しいだろう。だから厚手のダッフルに決める。

「出かけてきます」

「お気をつけて……」

「ストーカーさんに会えたら何か言いましょうか」

「こんな寒い日にはいませんよ。意気地なしですから……」

 そう言い返された憲子さんの言葉に、わたしは意外な面を感じる。が、何も言わずに玄関から出る。手入れの行き届いた門扉までの小路を歩いただけで身体中の熱が奪われる。門扉右側の小門を開き、車に注意し、家の外に出る。交通量は多くないが、時折高級車を駆る乱暴な若者が通るからだ。ついでに周りを確認するがストーカーらしき男はいない。が、無人ではなく年配の男性と子供がいる。子供の方には見覚えがある。区画は違うが近所の子供のはずだ。一方、年配の男性には、これまで一度も面識がない。まさか、この男が憲子さんのストーカー……。ふと、そう思うが否定する。精々想像の羽根を逞しくしても彼女を心配する父親にしか見えなかったからだ。けれども、その実、憲子さんのストーカーなのだろうか。……とすれば大学教授。わたしの視線に気づいたのか、コホン、と一つ咳払いをし、男性が駅の方へ去って行く。入れ替わりに、わたしが駅とは反対方向に向かう。関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地を特徴づける崖線。つまり急坂だが、それを降りるともう野川だ。気温が低いというのに元気な老人たちの姿が見える。その動きや周りの景色を愉しみながら、わたしの足が空中公園に向かう。私鉄O線K車検区の屋上が区の公園になっているのだ。所々に落ち葉が溜まる階段を一歩ずつ確実に、わたしが昇る。結構急だが、登り終えれば、別世界が開ける。小山に埋められた土管でできたトンネルで遊ぶ子供たち。点在する幼い子連れの母親たち。が、その場には意外な人物までおり……。

「入江課長、どうして……」

 ベンチで休む入江良光に驚き、わたしが問うと、

「いや、きみこそ何でこんな処にいるんだよ」

 という返答。課長の声が戸惑っている。

「何でって、婚家が近くなんですよ」

「そうか。知らなかったな」

 嘘には思えない入江課長の口振りだ。

「おれの方は仕事帰りさ。きみは知らんかもしれんが駅の近くに取引先がある。この公園があることは前から知っていたから息抜きに時々寄るんだ」

「そうでしたか」

「この前は悪かったな」

「いいえ、わたしの方こそ……」

「散歩かな……」

「散歩です」

「主婦なら、そろそろ買い物だろう」

「そうですね」

「幸せなんだよな」

「もちろんです」

「じゃ、おれは行くよ」

「はい、お気をつけて……」

 入江課長がベンチから立ち上がり、わたしが昇って来たのとは反対側の階段に向かう。が、その前に……。

「この前は言いそびれたが、知由はきみのことが好きなようだ。ときどき思い出したように、あのお姉ちゃんを家に連れて来てよ、とせがまれる」

 入江課長が真顔で言う。

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